性犯罪の被害者は「怒り狂った復讐者じゃない」、実名告白する女性の本心
I Am Not Vengeful
復讐心が強調されるのを見るにつけ、考えてしまう。脚本を書いた女性には性暴力を受けた経験がなく、血なまぐさい復讐劇に被害者はカタルシスを感じるはずだと思ったのか。あるいは脚本家は性暴力の被害者で、これは彼女の報復ファンタジーなのか。
性暴力に怒りや復讐心を抱くのは当然のことだ。だがハーバード大学医学大学院のジュディス・ハーマン教授(精神医学)はトラウマ研究の古典『心的外傷と回復』(邦訳・みすず書房)で、こう書く。
「トラウマを負った人は報復が安堵をもたらすと考えるが、報復ファンタジーに繰り返し触れることは、むしろ苦しみを悪化させる。暴力的でどぎついファンタジーはトラウマの元になった体験の記憶と同じくらい強烈で、恐ろしく、心を侵蝕しかねない。そうしたファンタジーは被害者の恐怖心をあおり、セルフイメージを傷つけ、自分が怪物になったかのように感じさせる」
作り手が自身のトラウマを消化できていないまま作り出すリベンジ物は、その気がなくとも「復讐に燃える女」のステレオタイプを助長し、ハーマンが示唆するとおり、回復の妨げになりかねない。
性暴力とその余波に対する反応は多様で、微妙な色合いを持つ。だが大衆文化は判で押したように復讐心に脚光を当てる。私たちサバイバーが世間に合わせなければとプレッシャーを感じ、複雑な心情を封印するのも無理はない。
加害者に対する悲しみも
私の気持ちも日々揺れる。投獄すれば被告の心がくじけるといった愚かな理由で弁護団がワインスティーンの特別扱いを求めたりすれば、心がくじけるどころか人生とキャリアをつぶされた被害者の女たちを思って怒りに燃える。
一方、こうならなくてもよかったはずのワインスティーンの人生と彼が女性たちに与えられたはずの支援を思い、悲しくなることもある。
映画界でインターンを始めた私は、ワインスティーン以外の有力者にも指導を仰いだ。だが私を襲うような男性はほかには皆無で、大勢が指導の手を差し伸べてくれた。
悲しみは、自身も幼い頃心に傷を負ったというワインスティーンにも及ぶ。彼をただの怪物として切り捨てれば、幼少期のトラウマが持つ悪影響を軽んじることになる。
そんな話は聞きたくないと、拒否する人も多いだろう。だがサバイバーの心情を決め付け極端に単純化する報道や映画は、人が体験する感情の多様さを否定してしまう。
古代ギリシャでは恐ろしい復讐の女神たちが、犯罪の抑止力になるとされていた。ワインスティーンが受ける報いも、自分は罪に問われないと高をくくっている権力者への抑止力になればいいと思う。
だが恥知らずな男どもを怖がらせるためのステレオタイプにされるのは、私はごめんだ。私は、単純化されない完全な一人の人間として尊重されるべきで、今後のインタビューには、そんな人間として登場したい。
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