苦労人シャネルと生まれながらの貴族のライバル、そして戦争
Chanel and Schiaparelli: Rivalry on the Riviera
さらに彼女は、ツイードのジャケットやシンプルなセーターにアクセントとしてジュエリーをあしらうスタイルを打ち出した。1921年には「シャネルの5番」という名の香水を発売し、莫大な富を築いた。
そこへ現れたのが、シャネルの唯一の本格的ライバルであるエルザ・スキャパレリだ。 彼女ほどシャネルと懸け離れた人物はいなかった。スキャパレリはナポリの貴族で、イタリアの宮殿で生まれ、父親は一流の学者だった。
裁縫はできず、自分を婦人服の作り手ではなく、芸術家と見なしていた。最初の、そしてたちまち成功をもたらしたデザインは、首元にボウタイの模様を編み込んだトロンプルイユ(だまし絵)技法のセーターだった。
1930年代前半のスキャパレリは従業員2000人を雇い、70種類の新作を年に2回発表するまでになっていた。ラップドレスや黒のスーツなど、どれも裕福で保守的な顧客が着やすい服だった。
一方ではジッパーが目立つドレスや、ジャケット付きのイブニングドレスなどで、独創的な顧客を驚かせてもいた。やがてスキャパレリの独特な華やかさは、シャネルの控えめなエレガンスと対比されることになる。
一方、貧しい少女時代を過ごしたシャネルは頂点を目指し、男を次々と乗り換えながら着実に成功への階段を上っていた。過去の劣等感を克服し、裕福な顧客とも対等に付き合えるようになった。
11歳で母親を失い、続けて父親が失踪し、フランスの片田舎の修道院に放り込まれるという過酷な境遇にも屈しなかった。そこで裁縫を習い、無限のエネルギーと生き残る決意、誰の圧力にも屈しない意思の力で生き延びた。
嫌み交じりの社交辞令
破竹の勢いで成功を遂げたシャネルだが、私生活では悲劇にも見舞われた。結婚を噂された恋人で仕事の協力者でもあったイラストレーターのポール・イリーブが突然、この世を去ったのだ。
これは大きな痛手だった。そして35年の秋にリビエラからパリに戻ったとき、シャネルはスキャパレリが単なる脅威以上の存在になっていることを知る。