ロバート・ダウニーJr.が1人4役の理由...異色のベトナム戦争ドラマ『シンパサイザー』は主演俳優にクギ付け
Stylish, Satirical Spooks
つまり、主要なアメリカ人登場人物の大半を、ダウニーJr.一人が演じている。最初のうち、この選択は人種差別的な「あの人たち、見分けがつかない」という侮辱の裏返しとして機能する。4人のアメリカ人男性は、それぞれ異なる形とはいえ、いかにもアメリカ人的にグロテスクだ。
魅力的な主役の末路は
教授は研究室を障子で飾り、日系アメリカ人の秘書(サンドラ・オー)に向かって自身の文化に無関心だと文句を言う(「私はアメリカ人です」と、秘書は言い返す)。映画監督は大げさなかんしゃくを起こし、政治家はご想像どおりで、嘘くさい日焼け肌のCIA職員はシニカルだ。
こうした風刺は少量なら、大きな効果がある。だが本作の最大の欠点は、ダウニーJr.の過剰な演技がだらだら続くせいで停滞に陥ることだ。
オリバー・ストーン監督やフランシス・コッポラ監督のベトナム描写を皮肉るような大尉の映画業界体験は、原作の最高に笑える部分の1つ。だがドラマ版では、早くダウニーJr.が退場して、ベトナム人俳優たちが再登場してほしいと思ってしまう。
本作は、ベトナムが世界の中心のような感覚を見事に生み出している。ひどい食べ物やみすぼらしい建物、ネズミとゴキブリだらけのアメリカは大尉と同胞にとって別種の収容所であり、流刑地だ。
感傷や単純なイデオロギーに抵抗する原作小説の姿勢は、ドラマ版にも共通している。「ここには戻ってくるな」。帰りたいと懇願する大尉に、本国の上司はそう警告する。
歴史の正しい側に立とうとする多くの者と同じく、大尉は恐ろしい行動をすることになる。この点で、彼の行動はつじつまが合わなくなる。
彼が信じる共産主義は、純粋な政治信念というより欧米の帝国主義への反動に映る。そのために、なぜこれほど犠牲を払うのか。彼にとって最も大切なのは少年時代からの親友2人だ。その2人は正反対の側に分かれ、それぞれがもっともな理由で戦っている。
こうした倫理的難問は多くの場合、魅力的な映像作品に昇華しない。本作の頼みの綱は、目をクギ付けにする主演俳優のカリスマ性だ。
シュエンデ扮する大尉は当初、自信過剰なほど冷静で、メンター役である人々の欠点や途方もない要求にエレガントに対応する。だが待ち受けているのは、不可能な状況がもたらす自身の崩壊であり、シュエンデは胸が痛むような弱さを表現してみせる。
コーエン兄弟の映画のように始まる大尉の物語は、ジョージ・オーウェルの小説のような世界にたどり着く。気の進まない道のりだ。戦争は終わり、自分たちの側が勝利したと、大尉は考えていた。だが、戦争は息を潜めていただけだったのだ。