坂本龍一と走り続けた40年──音楽業界の重鎮だけが見た天才の素顔
A DRAGON FLYING ABOVE
「散開」ツアーの打ち上げで(83年、右から2人目が坂本、3人目が近藤) COURTESY OF MASANOBU KONDO
<「教授」と苦楽を共にした近藤雅信が見た坂本の茶目っ気・シビアな一面・音楽性の核とは>
イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が最初に所属したアルファレコードをはじめ、東芝EMI、ワーナーミュージック、ユニバーサルミュージックでプロデューサーや取締役などを歴任した近藤雅信。数十年にわたり坂本龍一の仕事を間近で見つめ続け、プライベートでの親交も深かった。近藤に「教授」との思い出を振り返ってもらった。
教授には後に妻となる人を紹介してもらったり、食事に行ったり、お世話になりました。最後のやりとりは、いま僕がマネジメントしているミュージシャン岡村靖幸の音楽がSNSではやっていると伝えたときで、すごく喜んでいた。さかのぼると、初対面は1978年にアルファで編成のアシスタントを僕がやっていたとき。教授が東京・田町のオフィスに楽譜をコピーしに来て、「今度入社した近藤です」と挨拶しました。
翌年YMOの宣伝担当になり、取材によく立ち会ったし、メディアに配る宣材も作りました。よく覚えているのは教授に「近藤、窓際にいる仕事ができない社員を見て俺は頑張ろう、と思うのが会社なんだ」と、なぜか組織論を教わったこと(笑)。
物知りで、分からないことはすぐ教えてくれて本当に「教授」みたいな人でした。音でも言葉でも、メッセージを分かりやすく伝えるのがとてもうまい。スタジオの待ち時間によく読書をしていて、柄谷行人の本を抱えていたのを覚えています。
YMO初期はみんなセッションマンとして多忙な時期。スタジオでレコーディングの指示を出しながら、次の仕事の譜面を録音卓で書いていたという逸話も思い出します。
ソロ作で思い出深い曲は「ライオット・イン・ラゴス」。過熱するYMO人気のストレスから生まれた「アンチYMO」的な曲だけど、細野さん、幸宏さんが気に入りYMOの世界ツアーのオープニング曲に採用された。ニューヨーク公演ではこの曲で黒人の人たちが踊っていて「ダンスミュージックとして支持されている!」と記憶に残っています。
YMOは海外で例えば坂本九さんの「スキヤキ」のようにビルボードで1位になったわけではない。ただ最近、海外でもYMOの影響を受けたり、サンプリングしたりするミュージシャンが結構出てきていて、放射状に影響が広がっていると感じます。
その後僕が東芝EMIに移ると、YMOの再結成を制作部長として発案して、93年にアルバム『テクノドン』を担当しました。ビジネス的には成功でしたが、教授は「ちょっと(作品が)難しかったかな。ピンクフロイドとかのスタジアムロック感を入れてもよかったかも」と言っていた。伝えることに熱心な人だから、終わった後でも検証する。ミュージシャンとして珍しいと思いました。