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タランティーノの悪ノリ復讐劇
ナチスを虐殺する『イングロリアス・バスターズ』は歴史の真実を無視した絵空事
(作品賞、監督賞、助演男優賞など8部門でノミネート)
ナチを殺せ ピット演じるレイン中尉はヒトラー暗殺を企てる ©2009 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED
『イングロリアス・バスターズ』のクライマックスでクエンティン・タランティーノ監督が繰り出すのは、恐ろしいほどよく知られたホロコーストの残虐行為。だが、そこには誰の予想をも覆すひねりが施されている。
大勢の人が大きな建物に閉じ込められ、外側から鍵を掛けられたまま火が放たれる。その後の建物内の様子が克明に描かれる。どぎつい暴力描写で名高いタランティーノらしく、炎に包まれる人体も阿鼻叫喚もなめるように映し出す。そして、驚異のひねりが来る。
立場の逆転。そう、閉じ込められたのはナチス兵士で、彼らを焼き殺すのはユダヤ人。このひねりに人々は喝采するのか、それともぞっとするのか。観客の反応に今の文化のありようが映し出される。
タランティーノは『イングロリアス』で逆転ゲームに興じている。何しろレンタルビデオ店の店員からスタートして、B級映画(70年代の黒人映画やカンフー映画)に凝ったひねりを加えてキャリアを築いてきた男だ。
今回の挑戦はこれまで以上に壮大だ。『大脱走』や『地獄のバスターズ』など、アウトローな兵士が無謀な任務に挑む戦争大作に、思い切ったひねりを加えた。
もっとも、『イングロリアス』に登場する特殊部隊の米兵は全員がユダヤ系のへなちょこ。非ユダヤ系のアルド・レイン中尉(ブラッド・ピット)の下、ひたすらナチスの兵士を血祭りに上げ、その頭皮を戦利品として持ち帰るのが仕事だ。
頭皮をはぐバイオレンス・シーンは、タランティーノが目指すポストモダニズム的娯楽の象徴だろう。『イングロリアス』は戦争映画と西部劇をミキサーにぶち込んで「ピューレ」にしたような作品だ(ついでにこの2つが非常に似通っていることも証明している)。
特殊部隊の物語と並行して進む第2のプロットでは、ユダヤ人の反撃が描かれる。映画館でナチスの幹部をまとめて始末しようとする企てを追いながら、タランティーノはさらに遊び心を発揮する(ドイツの女優を演じたダイアン・クルーガーは、『トロイ』のヘレンよりもずっとはまり役だ)。
映画を比喩的な小道具として使うのではなく、物語の中核に据えた点は監督の新境地といえる。作戦成功のカギを握るのは引火性の高いナイトレートフィルムであり、映画が歴史をゆがめることに戸惑うある人物の行動が重大な事態を引き起こす。『イングロリアス』は、映画あっての映画なのだ。
大虐殺はただの小道具?
タランティーノ自身、『イングロリアス』に込めた思いをこう語っている。「映画の力でナチスを倒すという点が気に入っている。映画の力といっても比喩的な意味ではなく、現実として」
だが、映画は所詮現実ではない。ここでレンタルビデオで形成されたタランティーノの狭い世界観に問題が生じる。
ホロコーストを娯楽の題材にしていいかという議論は、メル・ブルックス監督の『プロデューサーズ』(68年)の頃からあった。97年にはロベルト・ベニーニ主演の『ライフ・イズ・ビューティフル』で同じ問題が再燃した。基本的にはたわいない映画賛歌にすぎない『イングロリアス』が、ホロコーストを小道具にしたことの是非を問う声も、当然出るだろう。
だが本当の問題はそのメッセージにある。『イングロリアス』からタランティーノ節の悪ノリをはぎ取れば、そこに残るのは復讐の快楽だ。
復讐という題材に対するタランティーノの思い入れは深い。スカっとするための必要不可欠な行為として復讐を捉える姿勢は、私生活にも表れている。 96年のインタビューでは「自宅には銃があって、12歳の少年が押し入ってきたらそいつを撃ち殺す」と言い切った。「押し入る権利はない。弾が切れるまで撃ちまくってやる」