最新記事
シリーズ日本再発見

コロナの時代を映す日本人作家のディストピア小説

Our Dystopia of Loss

2020年04月16日(木)15時00分
ジョシュア・キーティング

多くを語らない小川のスタイルはカフカや安部公房に近い WESTERSOE/ISTOCK

<今年の英ブッカー賞候補6作品に選ばれた小川洋子の『密やかな結晶』は、今の時代を予見するかのように日常が少しずつ壊れていく世界を描く>

また一つ消えた――。サンフランシスコに発令された外出禁止令の詳細を読んで、そんな思いに駆られた。

最初は、運動のためや必需品の買い物で外出が許されるなら、そこまで厳しくない措置に思えた。しかし外に出るたびに、いちいち警官などに呼び止められずに済む自由を失ったのは大きなことだと思い直した。

そんなふうに考えたのは、小川洋子の小説『密やかな結晶』をちょうど読み終えたところだったからだ。

日本人作家の小川が書いた本作(日本での出版は1994年だが、英訳は昨年出たばかり)を読まなければ、新型コロナウイルスの感染拡大でさまざまな物や人が日常から消え去っていることは筆者にとって、もっと信じ難いことに思えたかもしれない。しかし今となっては、どこか既視感のある光景だ。

作品の舞台は名前のない島。その島では、物が一つずつ消えていく。リボン、鈴、エメラルド、スタンプ、香水......初めのうちは、なくなってもやり過ごせそうな物が消えていった。

やがて鳥や花が消えた。大きな悲しみを伴うものだ。ほかにも、例えばカレンダーのように暮らしに欠かせない物が消えた。

物語の語り手である小説家も、「小説」の消失を経験する。体の部位が消え始めるという過酷な展開も待ち受ける。どうして消えるのか、人々が消えた物のことをなぜ忘れるのか。それらの点は明らかにされない。消えた物を覚えている人間を取り締まる「秘密警察」も、ちゃんと存在する。

多くのディストピア小説と同じく、『密やかな結晶』にも「オーウェル的」という形容詞が添えられることが多い。しかし多くを語らない小川のスタイルは、むしろカフカや安部公房に近い。

消えて戻ってこない物

中国の武漢やイタリアのミラノなど新型コロナ禍の中心地の状況は、映画『コンテイジョン』のような疫病の悪夢を描いた作品に近いのかもしれない。だが今の時点で、筆者の住む首都ワシントンでは『密やかな結晶』のほうがしっくりくる。

現実の世界では、些細な物から消えている。筆者の地元のカフェでは、まず砂糖やミルクを置く棚が消え、次にテーブルの数が減り、やがて店が閉じた。その後数週間のうちに、旅行もパーティーも入社面接もなくなった。

知人との握手、友人とのハグ、果ては人と会うことそのものもなくなった。少し前まで、友人と家で会うことまでは問題なかったはずが、今は状況がまるで違う。小川の小説にあるように、消えてしまった物の中で二度と戻ってこない物もあるのではないかと心配になるのも確かだ。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、ウクライナ和平仲介撤退の可能性明言 進

ビジネス

トランプ氏が解任「検討中」とNEC委員長、強まるF

ワールド

イスラエル、ガザで40カ所空爆 少なくとも43人死

ワールド

ウクライナ、中国企業3社を制裁リストに追加 ミサイ
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプショック
特集:トランプショック
2025年4月22日号(4/15発売)

大規模関税発表の直後に90日間の猶予を宣言。世界経済を揺さぶるトランプの真意は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    しゃがんだ瞬間...「えっ全部見えてる?」ジムで遭遇した「透けレギンス」投稿にネット騒然
  • 2
    【クイズ】売上高が世界1位の「半導体ベンダー」はどこ? ついに首位交代!
  • 3
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ? 1位は意外にも...!?
  • 4
    【渡航注意】今のアメリカでうっかり捕まれば、裁判…
  • 5
    今のアメリカは「文革期の中国」と同じ...中国人すら…
  • 6
    300マイル走破で足がこうなる...ウルトラランナーの…
  • 7
    「2つの顔」を持つ白色矮星を新たに発見!磁場が作る…
  • 8
    トランプ関税 90日後の世界──不透明な中でも見えてき…
  • 9
    米経済への悪影響も大きい「トランプ関税」...なぜ、…
  • 10
    トランプに弱腰の民主党で、怒れる若手が仕掛ける現…
  • 1
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜け毛の予防にも役立つ可能性【最新研究】
  • 2
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ? 1位は意外にも...!?
  • 3
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最強” になる「超短い一言」
  • 4
    あなたには「この印」ある? 特定の世代は「腕に同じ…
  • 5
    パニック発作の原因とは何か?...「あなたは病気では…
  • 6
    中国はアメリカとの貿易戦争に勝てない...理由はトラ…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    しゃがんだ瞬間...「えっ全部見えてる?」ジムで遭遇…
  • 9
    動揺を見せない習近平...貿易戦争の準備ができている…
  • 10
    【渡航注意】今のアメリカでうっかり捕まれば、裁判…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 3
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 4
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛…
  • 5
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 6
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 7
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 8
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    「低炭水化物ダイエット」で豆類はNG...体重が増えな…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中