エンターテインメント空間化する中国のEV
「新華路飯店が見えてきたわ。ちょいと失礼」と李さんは言って、歩道寄りの右側車線を走るベンツの前にスッと横入りした。ちょっとマズいかなと思った。日本だったら、車格の高いベンツの前に、車格が低い車が横入りしたりすると、生意気だと見られて煽られることもあるからだ。
チラリと後ろを振り返ると、ベンツの運転手は怒るどころか笑っている。
「李さん、後ろの運転手が笑っているよ。どうしたの?」と私は聞いた。
「ああ、テールランプで『ちょいと失礼』サインを出したからだと思うよ」
「へえ、そんな機能があるんだ」
「他にも『お先にどうぞ』とか『車間距離とってね』といったサインがあって、このタッチパネルで操作するの」といって李さんは中央のディスプレイを指した。
やがて車は新華路飯店の車寄せに入っていった。
「じゃあ明日はダンナが朝9時に迎えに来るから。調査頑張ってね。リーリーとはここでお別れね。一緒に写真とりましょう」
そう言って李さんは真ん中のディスプレイを操作した。すると、車内を写すカメラの画像が表示され、3人の顔が映った。
「じゃあ行くわよ。1、2、3、チエズ(茄子)!」
*****
「架空乗車体験」はここまでにしておこう。
10年ほど前、「日本経済は自動車産業の一本足打法になっている」という言い方がなされていた。電機産業など自動車以外の分野も立て直さなければならない、という意図でそう言われていたのだが、当時は日本の自動車産業の強さが揺らぐとは誰も思っていなかった。
だが、今その前途が怪しくなっている。中国ではEVシフトとともに、自動車産業と情報通信技術(ICT)との本格的な連携が始まり、車が「気持ちよく移動する空間」から「楽しくすごす空間」へ変わろうとしている。一方、日本の自動車メーカーはEVシフトの波には乗っていないし、ICTの取り込みが中途半端なので、生み出す車は従来の車のコンセプトから大きく外れないものばかりである。中国産EVが世界に輸出されるようになれば、車の概念が大きく変化し、日本車が一気に色褪せてしまうのではないだろうか。
中国では2022年に2702万台の自動車が生産されたが、うち706万台がEV(プラグインハイブリッド車を含む)であった。2022年の日本の全自動車生産台数が784万台だったから、中国のEV産業だけで、日本の自動車産業全体に匹敵する規模になりつつある。
その中国のEV産業で起きている変化が世界に影響を及ぼさないはずはない。日本の自動車メーカーは、中国の新興EVメーカーが推し進めている車内のエンターテインメント空間化をまだ軽蔑の混じった目で見ているのだろうが、彼らの影響力が日本よりも大きくなる日がすぐそこまで迫っているのである。このままでは日本経済を支えてきた一本足も危ういと言わざるをえない。
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