コラム

「最も巨大な国益の損失」を選択したイギリス

2017年04月03日(月)05時50分

3月29日、ブリュッセルでメイ首相の離脱通知文を渡されたEUのトゥスク大統領(左) Yves Herman-REUTERS

<EU離脱通知を行ったメイ首相だが、離脱をスムーズかつ双方の利益になるように進めたいと考えているのはイギリスだけ。EU側にそのような意図はあまりなく、イギリスにとって厳しい交渉になりそうだ。今後はどのようなシナリオが考えられるか>

2017年3月29日。この日はイギリス史にとって、決して欠かすことのできない決定的な日となった。イギリス政府が正式に、EUに対してリスボン条約50条に基づく離脱通知を行い、EUがそれを受理したのだ。これによって、2019年3月29日にイギリスがEUから離脱することが確定した。イギリスの40年を超える欧州統合のプロジェクトからの離別を意味することになる。

イギリスのメイ首相がブリュッセルのEUに送った通知文の文面は、実に奇妙なものであった。第一に、保守党は1990年代半ば以降これまで、20年近くにわたってEUを罵り、侮蔑し、敵対し、批判を続けてきた。ところがこの通知文では一転して、「イギリスはEUの成功と繁栄を望んでいる」と書かれている。

国民投票前に、離脱派のリーダーであったボリス・ジョンソン氏(現外相)は、EUはナチスと同様だと批判していた。はたしてジョンソン外相は、「ナチス」の「成功と繁栄」を望んでいるのだろうか。あるいは、国民投票前にジョンソンは虚偽を語って国民を欺き、イギリスを離脱に導いたのか。それとも今の政府が語っている言葉は、誠実でないのか。そうでなければ、この1年間でEUが「ナチス」から、そうではなくイギリスにとっての重要な、価値を共有する「パートナー」へと変貌をしたのか。あまりにも言葉が軽すぎる。

第二に奇妙なのは、離脱前にメイ首相を含む残留派が、詳細なデータを用いて離脱がイギリスの政治や経済に破滅的な影響を及ぼすと語っていた、その基本的なトーンが消えていることである。メイ氏(当時は内相)は、「安全保障上の理由、犯罪やテロリズムからの保護という理由、欧州との貿易上の理由、そして世界中の市場へのアクセスのための理由から、欧州連合の加盟国であり続けることは、国益であるのだ」と語っていた。

イギリスのEU離脱が、経済的にも安全保障上も国益を傷つけることになるリスクを、誠実に語るべきであろう。あるいは、EU残留を強く擁護していたかつての自らの主張が誤っていたと、語るべきであろう。

メイ氏は国民投票前には、イギリスがEUに加盟することを求めていた。しかしながら首相となった以上は、国民が国民投票を通じて離脱を選択したのであるから、民主主義国であるイギリスの政府が国民の信託を受けて離脱を円滑に行うことが義務だと考えているのだろう。そして、そうである以上は、EU離脱をスムーズかつ双方にとっての利益となるように進めたいという決意なのだろう。

プロフィール

細谷雄一

慶應義塾大学法学部教授。
1971年生まれ。博士(法学)。専門は国際政治学、イギリス外交史、現代日本外交。世界平和研究所上席研究員、東京財団上席研究員を兼任。安倍晋三政権において、「安全保障と防衛力に関する懇談会」委員、および「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」委員。国家安全保障局顧問。主著に、『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、サントリー学芸賞)、『外交による平和』(有斐閣、櫻田会政治研究奨励賞)、『倫理的な戦争』(慶應義塾大学出版会、読売・吉野作造賞)、『国際秩序』(中公新書)、『歴史認識とは何か』(新潮選書)など。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

トランプ関税巡る市場の懸念後退 猶予期間設定で発動

ビジネス

米経済に「スタグフレーション」リスク=セントルイス

ビジネス

金、今年10度目の最高値更新 貿易戦争への懸念で安

ビジネス

アトランタ連銀総裁、年内0.5%利下げ予想 広範な
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 5
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 6
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 7
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 8
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 9
    トランプ政権の外圧で「欧州経済は回復」、日本経済…
  • 10
    ロシアは既に窮地にある...西側がなぜか「見て見ぬふ…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ...犠牲者急増で、増援部隊が到着予定と発言
  • 3
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 4
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 5
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 6
    墜落して爆発、巨大な炎と黒煙が立ち上る衝撃シーン.…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    週に75分の「早歩き」で寿命は2年延びる...スーパー…
  • 9
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 10
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 5
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 6
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 7
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 10
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story