コラム

伝えられないサウジ、湾岸、イランの新型コロナ拡大

2020年03月30日(月)18時30分

そんな命にかかわる危険があるにもかかわらず、マッカだろうが、マディーナだろうが、カルバラーだろうが、マシュハドだろうが、巡礼を敢行する人たちは多い。彼らからみれば、巡礼をはたしたいという熱意のまえには政府による規制など大した意味はないのかもしれない。

そういえば、湾岸戦争が終わった直後、イラクでサウジ人が交通事故で死亡する事件があった。サウジ人が交戦国にいることで奇異に思って注目したのだが、何のことはない、死んだのはシーア派のサウジ人で、ナジャフやカルバラーなどイラクのシーア派聖地に巡礼にいっていたのである。

極端なケースだと、新型コロナウイルスが蔓延しているゴムのファーテメ・マァスーメ廟、マシュハドのイマーム・レザー廟で廟そのものや壁を舐める不埒な輩まで現れている。彼らは、イラン当局が信者の聖廟への巡礼・参詣を規制するのに反対して、かかる行動に出たとされる。

ほんとに巡礼が好きなのか、単に勇気を見せたいだけなのか、あるいはただのバカなのか。

ハッジ中に死ぬことは、ジハードで殉教するにひとしいとされ、天国にいけるというのが定説である。巡礼を完了せず、その途中で死んだ人は、復活の日に立ち上がり、巡礼のときに唱える「タルビーヤ」という祈りの句を唱えるとされる。それで巡礼達成になるという。

ハッジの目的が天国にいくことであれば、その途中で死んだとしても目的は達成できたというわけだ。わたしも、大して信仰心もないのに、日本百観音と四国遍路を結願したクチなので、気持ちはわかる。

マスク着用を推奨――宗教者による啓蒙も必須だ

ちなみに、巡礼を行うときは、空路サウジアラビアに入ることが多いが、そのとき、ムスリムは飛行機に乗るまえに、「イフラーム」という巡礼用の服装に着替えなければならない。

このイフラームは縫い目のない2枚の布からなっており、1枚は腰に巻き、もう1枚は片方の肩を出すように上半身を覆うのが一般的である。なお、女性がイフラームを着用する義務はないが、顔を隠してはならないとされる。この恰好で密閉空間の飛行機に乗るのである。

マッカ到着後の巡礼の儀式は屋外で行われる場合が多い。だが、200万人の人がマッカの特定の場所に同じ時間帯に集中するので、信者間の距離は近くならざるをえず、濃厚接触も少なくないはずだ。

今回の新型コロナウイルス騒ぎ以前からマッカではハッジ期間中にさまざまな伝染病が蔓延してきた。なかでも多いのは呼吸器系の伝染病で、そこから肺炎などになって入院する患者も少なくなかった。

こうした伝染病の感染は、ある程度までマスクで防げるはずだ。もちろん、医学的見地から巡礼中、マスク着用を推奨する声は大きいし、実際、サウジアラビア保健省も、人が密集する場所でのマスク着用を呼びかけてきた。ところが、巡礼たちのなかにはマスクをしたがらないものが多いという。

前述のとおり、巡礼中は女性も顔を出さねばならないとの説が一般的なので、当然、男性もハッジのあいだ顔を隠すのは許されない、したがってマスクの着用もダメと考える人もけっこう存在する。前述の聖廟をなめるイラン人の場合もそうだが、宗教者による啓蒙は必須であろう。

イスラームにかぎったことではないが、伝染病の大流行や大きな自然災害はしばしば人の心を歪めることがある。中世の黒死病のときヨーロッパの各地でユダヤ人虐殺などの事件が発生した。中世のイスラーム世界ではそうした少数派に対する虐殺はほとんどなかったとされるが、新型コロナウイルス騒動ではパレスチナで日本人がアジア人というだけで攻撃を受けるという事件が起きた。

医師のみならず、政治家、宗教者、メディアの役割も忘れてはならないということだろう。

cover200407-02.jpg
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2020年4月7日号(3月31日発売)は「コロナ危機後の世界経済」特集。パンデミックで激変する世界経済/識者7人が予想するパンデミック後の世界/「医療崩壊」欧州の教訓など。新型コロナウイルス関連記事を多数掲載。

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究顧問。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授、日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長等を経て、現職。早稲田大学客員上級研究員を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

蘭ASML、四半期決算での新規受注公表中止 株価乱

ワールド

トランプ氏「BRICS通貨つくるな」、対応次第で1

ワールド

ソフトバンクG、オープンAI出資で協議 評価額30

ビジネス

経営統合の可能性についての方向性、2月中旬までに発
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ革命
特集:トランプ革命
2025年2月 4日号(1/28発売)

大統領令で前政権の政策を次々覆すトランプの「常識の革命」で世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
  • 4
    今も続いている中国「一帯一路2.0」に、途上国が失望…
  • 5
    東京23区内でも所得格差と学力格差の相関関係は明らか
  • 6
    ピークアウトする中国経済...「借金取り」に転じた「…
  • 7
    「やっぱりかわいい」10年ぶり復帰のキャメロン・デ…
  • 8
    DeepSeekショックでNVIDIA転落...GPU市場の行方は? …
  • 9
    空港で「もう一人の自分」が目の前を歩いている? …
  • 10
    フジテレビ局員の「公益通報」だったのか...スポーツ…
  • 1
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 2
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 3
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果が異なる【最新研究】
  • 4
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
  • 5
    緑茶が「脳の健康」を守る可能性【最新研究】
  • 6
    DeepSeekショックでNVIDIA転落...GPU市場の行方は? …
  • 7
    血まみれで倒れ伏す北朝鮮兵...「9時間に及ぶ激闘」…
  • 8
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 9
    今も続いている中国「一帯一路2.0」に、途上国が失望…
  • 10
    煩雑で高額で遅延だらけのイギリス列車に見切り...鉄…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のアドバイス【最新研究・続報】
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀…
  • 5
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 6
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 7
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 8
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 9
    中国でインフルエンザ様の未知のウイルス「HMPV」流…
  • 10
    失礼すぎる!「1人ディズニー」を楽しむ男性に、女性…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story