我々の弱点を前提として、民主主義を「改善」することはできないだろうか
Hollydc-iStoxk
<近年の行動経済学や認知心理学の発展は、人間の思考が偏っていて扇動に引きずられてしまいがちであることを明らかにしたが、そろそろ民主主義のあり方を真面目に議論すべき時期に来ているのではないだろうか>
イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは、民主主義に関して有名なコメントを2つ残した。よく知られているのは1947年に議会で演説した際の、「民主主義は最悪の政体と言える。これまでに試された他の全ての政体を除けば」というものだが、あまり知られていないもう一つは、「民主主義への最強の反駁は、平均的な有権者と5分間会話すること」だった。
チャーチルも喝破したように、民主主義が最善と考える人はあまりいない。ファシズムや独裁よりはマシ、という程度の消極的支持が大半であろう。そして、「平均的な有権者」である我々の(意志決定)能力は甚だ低い、というのが以前のコラムの結論であり、チャーチルの結論でもあった。
多くの有権者は政治的な知識を持たず、関心も無く、非合理的な意志決定をしがち...と、実のところ大昔からささやかれてはきたのだが、それが最近ではデータで実証できるようになってきた。そして、もしこれが正しければ、民主主義による意志決定が倫理的に正当化できるとは言えないのではないか、というのが前回の「能力原則」の話である。
有権者が政治に無知や無関心なのは、民主主義の仕様
では、有権者が愚かで不勉強なのが問題なのだろうか。政治にせよ経済にせよ、相当な手間暇をかけて学ばなければ理解出来ないのに、自分の一票が物事を変える可能性は限りなく低い。ゆえに、有権者が賢く合理的なので、そもそも勉強するわけがないという皮肉な結論が導かれてしまう(合理的無知)。有権者が政治に無知や無関心なのは、民主主義のバグではなく仕様なのだ。
加えて、近年の行動経済学や認知心理学の発展は、人間の思考が従来考えられていたよりもはるかに偏っていて、偏見や思い込み、あるいは扇動に引きずられてしまいがちであることを明らかにした。こうした「システマチック・バイアス」が存在すると、コンドルセの陪審定理やホン=ペイジの「多様性が能力に勝る」定理 といった、民主主義の基盤である多数決の信頼性を保証する定理の前提が崩れてしまう。
これらは簡単に言えば、メンバーに知識や能力が無くとも、ある条件が満たされれば、多数決で正解が選ばれる可能性が十分高くなる、ということを示唆する理論で、ようは「みんなの意見は大体正しい」というのが多数決への信頼であり民主主義への信頼の源だったわけだが、そこが怪しくなってくるのである。
さらに、実際の政治がどの程度うまく機能しているかに関しても、最近では様々な実証研究がある。例えば日本の選挙では投票率の低さが嘆かれ、政治参加の必要性が説かれるが、投票が義務の国とそうでない国を比較すると、義務投票制の国の有権者のほうが政治的知識が高いとも、政治活動がより活発になるとも言えないという。単なる政治参加は必ずしも有権者を「教育」しないし、意志決定の質も高めないのである。
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