アステイオン

国際政治学

40年は1つの秩序に綻びが生じるに十分な長さ...高坂正堯「粗野な正義観と力の時代」より

2024年07月10日(水)11時05分
高坂正堯(国際政治学者)
地球

ColiN00B-pixabay


<1986年に国際政治学者・高坂正堯氏が『アステイオン』創刊号に寄せた論考「粗野な正義観と力の時代」を全文転載>


フィリピン政変への干渉、リビアへの武力行使......粗野な正義観が国際政治を動かし始めた。古代ローマから現代に至る史的展望から文明精神の復権を問う。『アステイオン』創刊号『アステイオン』創刊号(1986年)より全文転載。

※ウェブ転載時に改行を1行あけに変更、また傍点は太字に変更している。


嫌な時代になって来た。と言う際、私は日本をめぐる環境のことを、とくに念頭に置いているわけではない。たしかに、日本の国際経済政策とその膨大な経常収支に対するほとんど世界的な批判のたかまりは深刻な問題である。しかも、その批判のなかには正当でないものも含まれている。たとえば、日本の成功に対するねたみの感情の作用は否定しえない。また、アメリカの対日批判のなかには、自らの怠慢を認める代りに、日本をスケープゴートにする傾きが認められる。これらはすべて嫌なことである。しかし、人間は本性上自己中心的な存在である。普通、人間はその立場を正しいと考えすぎるところがある。したがって、日本をめぐる状況から出発するのは差し控えよう。逆に直接の関係はそうはないが、また、重要性はそう大きくないかも知れないが、よく知られている事実から始めよう。


まずは、最近のフィリピンの政変とそれに対する人々の態度である。マルコス政権の打倒という事態に際して、圧倒的多数の人々は「暴政の打倒」として歓迎した。たしかに、マルコス大統領は民意に沿って統治しているとは到底言えない存在であり、そうして私物化した権力を自らとその取り巻きの私利に役立てるところがあった。それが打倒されたのは喜ばしい。しかし、その際、アメリカを中心とする内政干渉があったこともまた事実である。

昨年秋【編集部注:1985年】、アメリカのラクゾルト上院議員がフィリピンを訪れ、マルコス大統領に会って、フィリピンの内政改革を要求したことから、今回の政変劇は始まった。もっとも、大統領選挙をおこなうことにしたのはマルコス大統領の判断――正確に言えば勝てるという誤算――によるものであるから、ここまでなら内政干渉とは言えないであろう。しかし、大統領選挙に際して、不正がないよう見届けるということで、議員を中心とした監視団が送られたことは、かなりの程度の内政干渉である。さらには、マルコスとアキノ夫人が共に大統領に就任し、フィリピン軍の一部が叛旗をひるがえすという事態に直面して、アメリカがマルコスに圧力をかけたことは疑いない。そして最後の段階でアメリカはマルコスの本意に反して、グァム、ついでハワイへとマルコスを輸送した。

こうした事実は、フィリピンの政変を喜ぶ人々によってまるで注意されなかった。逆に内政干渉を指摘した人々は、だから問題だとしか言わなかった。これらは共に、人々が粗野な正義観によって動いていることを示している。

だが、内政不干渉の問題は、そのように粗野な形で扱われるべきものではないのである。内政不干渉は国際法の重要な原則であり、したがって原則的には排除される。だが、国際政治に関する理論において、それがつねに不正だとされて来たわけではない。とくに、暴君が他国にあるときどのような態度をとればよいかということが、もっとも微妙な問題とされて来た。その注意深い考慮を、われわれはJ・S・ミルの『内政干渉について』に見ることができる。彼は暴君を倒そうとしている人民への支持は例外となりうると考えた。今回のアメリカの干渉はその例外たりうる。しかし、暴君を生み出した国民を支持して暴君を倒しても、そうした国民は再び暴君を生み出すであろうということを忘れてはならない、とも彼は書いている。だから問題はどれほどの援助かということが重要であり、大規模に介入しなくてはならないような場合は、他国の内政に介入すべきではないことになる。今回のアメリカの介入は控え目なものであったから、この条件をも満している。

ごく要点だけを記しても、暴君打倒に立ち上った国民への外部からの干渉は、以上のような考察を必要とするものなのであり、そうした考察がなかったことは、粗野な正義観の横行を示している、と言わなくてはならない。

第二の事例は、リビアに対するアメリカの武力行使である。この問題を考える際、まずテロ行動を支持したり、命令したりする国といったものが、およそ許されるべきでないことを、はっきりと承認しなくてはならない。この原則をあいまいにするときに生ずるのは無政府状態である。実際、近代ヨーロッパの文明が進歩と言えるそのひとつは、政治的手段としてのテロ、暗殺、毒殺がほとんど姿を消したということであろう。それらはすべて責任を問うことができず、それ故、規制することができない形態の暴力である。それがなくなり、国内及び国家間の暴力が規制されたところに近代文明が生まれたと言ってよい。

だが、ここで注意すべきは、こうした忌わしい形態の暴力が姿を消したのは、それを抹殺するために、いずれかの強国が軍事力を用いたためではないということである。それは人々の意思を尊重する政治形態、法に従って統治し、また国家間でもできるだけ法に従って行動するという法治主義が、次第に強まりそれもあって人々の考え方が温和になって行くことによって徐々に姿を消したのであった。それもそのはずで、テロ、暗殺、毒殺といったものは、国内及び国際社会の欠陥の反映なのであって、原因ではない。そうした兆候に対し強力に力を用いることは、かえって状況を悪化させることが多い。こう言うことが、力の行使がつねに悪いという単純な考え方に基づくわけではないことは改めて強調するまでもあるまい。人間は極限的状況においては、力を用いて戦わなくてはならないこともあるからである。そうした力に関する洗練された考え方の強まりと反比例して、忌わしい暴力は姿を消したと見るべきであろう。そう考えると、リビアに対するアメリカの実力行使が粗野な力の哲学のあらわれであることは否定しえない。忌わしい暴力と粗野な力の哲学の対決はまことに嫌な様相なのである。

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