アステイオン

国際政治学

40年は1つの秩序に綻びが生じるに十分な長さ...高坂正堯「粗野な正義観と力の時代」より

2024年07月10日(水)11時05分
高坂正堯(国際政治学者)

そのことをワルトハイムは、徴兵され、東部戦線で負傷した後、その予後が悪かったので徴兵解除され、大学に戻って法律を勉強したと偽った。しかし、その偽りも人間的な罪と言えよう。「戦争犯罪」の名の下に、それまでは処罰されえなかった行為が処罰されるようになったとき、そうした処罰から逃れたいという気持を持ち、そうしても責任回避ではなく許されることだと考えるのは、人間として普通のことだと言わなくてはならない。こうして私は、ワルトハイムのスキャンダルは、普通程度の利己主義と、「連合国」の正義観の行きすぎの後遣症とが生み出したものだと思う。それだけにやり切れない思いがするのである。

そして、「連合国」の戦後処理のかくれた小さな問題点が戦後四十余年を経た今日、偶然にも、明るみに出たことは、案外示唆的であるかも知れない。四十年という年の経過はひとつの秩序にほころびを生ぜしめるのに十分の長さだからである。時の経過が、戦後に作られ、ほとんどの人々がそのときには承認した秩序の問題性を示すようになり、少なからぬ数の人々がその問題点を意識するようにさせるのである。過去の歴史は、こうした展開が蓋然性の大きなものであることを教えている。それに加えて、同じ時の歩みが戦後リーダーシップをとった国の力の相対的な低下をもたらす。リーダーシップをとった国の負担の過剰に加えて、ある時期での力の優越と成功から生ずる不可避の奢りが、そうした結果を生むのである。

当然、指導国は反撃に出る。しかし、その際、相対的な地位の下降をもたらした原因はいぜんとして続いている。基本的には、四十年の歳月が生み出した国際的な力の配分の変化や人々の考え方の推移が十分に判らない。そして奢りはなおも残っていて、自らの欠陥や立ちおくれに十分気がつくこともない。それ故、自信さえ取り戻せば、かつてのリーダーシップは回復できるのだと思ってしまう。そこから、強引な自己主張がおこなわれるのであり、その帰結はまだ判らないが、レーガン政権はそうした性格の政権なのである。

逆に、国際秩序の正当性への疑念が、もっともしいたげられて来た人々のなかからおこる。ドイツは、アメリカの人々の賢明な戦後の政策のおかげで、そうした立場には置かれて来なかった。飢餓に悩むアフリカ諸国はもっともひどい状況にあるが、ある種のあきらめがある。もっともしいたげられて来たという感覚は、それが置かれる客観状況と、それが持つ自負心との比率で決まる。その意味でもっともしいたげられて来たと感じている国はアラブ諸国であろう。

彼らは、一度は世界の中心であったから、それなりの自負心がある。そして、ユダヤ人問題というヨーロッパが生み出した問題のツケとして、不法にもアラブ世界の中にイスラエルが作られた――少なくともアラブ人はそう考える。そのような訳で、アラブ諸国は第二次世界大戦後の国際秩序の不当さをもっとも強く感ずる立場にあるのだし、その代表がリビアなのである。その自己主張は、したがって、極端なものとなる。なにをしても許されるという感覚がそこには存在するし、それなしにテロ活動という不法な手段がとられることはないであろう。

こうして、リーダーシップ再発揮を目指すアメリカと、国際秩序の不正に対して極端な形で反撃するリビアがぶつかるのは当然なのである。それ自身は国際秩序をゆさぶるほど大きな闘争ではないかも知れない。しかし、それはひとつの国際秩序が作られてから相当の期間が経た後、国際秩序が動揺するときの典型的なできごととして重要である。


以上のような事態の展開を、嫌なこと.好ましくないことと考えるのは、私なりの文明観に基づいている。人によっては、しいたげられて来た人々が手段を選ばずに抵抗するのはよいことではないかと論ずるであろう。しかし、私はそうは思わない。そうした、いわば「絶望的抵抗」が積極的に望ましいものを生み出したことは、歴史において皆無か、あるいはほとんど例がないからである。世の中には秩序が必要だし、そのためにはリーダーシップがなくてはならない。しかし、だからと言って、どのような形においてであれ、リーダーシップの再建がよいことだとは言えないのは無論である。こうした動きは文明の精神に反する。

もっとも、文明という言葉はきわめて定義し難いものである。この言葉は人々がごく普通に用い、その際常識的な了解は存在するのだけれども、そこから一歩進んで、抽象的、一般的に定義しようとすると、なかなか巧く行かないところがある。たとえば、現代の人間に対して文明についての常識的見解を聞くなら、自然科学が発展し、工業技術を利用した産業が繁栄し、人々の生活が豊かになって来たことを文明の発展と答えるであろう。そうした答えが大きく間違っていないことは、以上の展開が逆行するとき近代文明は衰退し始めたと判断できることから理解されるであろう。

しかし、それは一般的な定義にはならない。それを一般的な定義とすると、自然科学や工業技術の発展の点では見劣りのする古代世界における人類の業績は大したものでなく、文明ではなかったということになってしまう。それはわれわれの健全な常識に反する。もっともギリシア、ローマ、中国のいずれをとっても、その文明の興隆期には、なんらかの学術が進み、人々の生活は豊かになったから、その程度に一般化すれば文明の定義たりうると言えそうにも思える。

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