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国際政治学

40年は1つの秩序に綻びが生じるに十分な長さ...高坂正堯「粗野な正義観と力の時代」より

2024年07月10日(水)11時05分
高坂正堯(国際政治学者)


以上に述べて来たことは、歴史的に見て、さらに強まる蓋然性のたかい展開であるように思われる。というのは、ひとつの国際秩序はひとつの大きな戦争の後に作られるのが普通である。そうしたとき、人々の支配的感情は、とにもかくにも、もう戦争はごめんだというものである。多くの動物生態学者が指摘しているように、人間は攻撃性を持つし、それは悲劇の原因であると同時に、人類の進歩の原動力たる活力の源泉でもある。

換言すれば、人間の攻撃性は地球の火山活動にたとえうるかも知れない。火山活動は地震や噴火という災害をもたらすが、それがなくなるとき、地球は死滅へと向うのである。そして、火山活動には波がある。大きな噴火や地震はしばらくの間の平穏につながることが多い。逆に、しばらく平静であればそこで蓄積されたエネルギーがやがて解き放たれる。同様に、大戦争の後しばらくの平穏が続くのである。

また、大戦争の後に作られる秩序は相当の正当性を持つ。有難いことに、人間は無闇に大きな戦争はしない。人間にとって重要な価値がかかるから、彼らは激しく戦うのである。第二次世界大戦について言えば、それは十九世紀的な帝国主義の極限形態と、それに対抗するものとの闘争であったと言えよう。そして、第二次世界大戦が始まった段階で、十九世紀的な帝国主義は、必ずしも万人が悪と認めるものではなかったのである。なんと言っても、それに先立つ数十年間、諸列強は帝国主義をとって来ていたし、彼らはそれを利己主義の極致であり悪であるとは毛頭思っていなかった。それどころか、キップリングの「白人の責務」という言葉が示すように、帝国主義国は帝国主義が人類の文明の発達に貢献するものと信じていたのだった。第二次世界大戦後、帝国主義が悪とされるに至ったことをわれわれは承認すべきだが、それと同時にそれ以前には帝国主義を悪とする原則が確立していなかったことにも留意しなくてはならない。

それはともかく、すべての事物は極端な形をとることによって終る。ナチス・ドイツは帝国主義の極限形態であった。ダーウィニズムは帝国主義の重要なイデオロギーであった。そしてその極限が、「劣等民族」たるユダヤ人は抹殺すべきであり、その次に位置するスラブ人は「奴隷化」してもよいという考え方となった。そこまで行くと、それが正義に反することは、常識人であれば理解できるものになった。その結果、「枢軸国」を打倒することは、相当激しい手段を用いても果されなくてはならない目標とされた。

こうした過程を経て第二次世界大戦後の国際秩序は正当性を持つに至ったのであろう。もちろん、「連合国」の側にも疑わしい行為はあった。「連合国」の団結を守るために必要であったにせよ、「無条件降伏」を目標としたことは、ドイツ国民を最後まで戦わせることになった。また、それはソ連の勢力を第二次世界大戦の勃発時にはだれも予想しなかったほど増大せしめ、次の時代の問題を作った。「戦争犯罪」裁判も、正当性があるか否か疑わしい。それまでに定められている戦争法を犯したことで処罰するのは当然だが、新しく基準を作り、それを遡及的に用いて処罰することは正しいとは言えないであろう。だが、そうしたことは帝国主義の極限形態であるナチス・ドイツの余りの不法性故に、問題とはされなかった。

ここで、最近おこったもうひとつの嫌な事件に触れさせてもらおう。すなわち、前国連事務総長クルト・ワルトハイム【編集部注:オーストリアの政治家。1918-2007年】の戦争中の経歴が明るみに出た事件である。それが嫌な事件であると私が感じたのは、二つの理由があるように思う。第一は四十数年前の行為が今さら問題になることの割り切れなさである。法の体系には時効という制度がある。それはある程度以上日時が経過し、十分にその時の事情を確かめえない可能性のある行為について、有罪・無罪を争うことが、人間に割り切れない感情を与えることを考慮して作られたものであり、智恵の産物と言えるのではなかろうか。今回だれもワルトハイムを訴追しようというわけではないが、しかし、四十数年前のことを非難する過剰な正義観に嫌なものを感ずることを否定しえない。

第二の理由はワルトハイムが自分の過去を四十年余りにわたって欺き通して来たということである。それは彼が清廉潔白ではないという印象を与える。少なくとも、だまされたことへの不快感が生じる。ワルトハイムが国連事務総長を終えた後、静かに引退生活に入っていたら、どれだけよかっただろうか。それをオーストリアの大統領になろうとしたのは、ワルトハイムの野心を見せつけられたという感じがする。

だが、ワルトハイムを人並み外れた野心家とみなすことはできない。彼が十九のとき、オーストリアはドイツによって併合され、やがて彼は徴兵された。そうした状況において、それなりに出世したいと思うのは普通のことだし、それが彼の頭脳の優秀さと相まって、彼を情報将校たらしめ、バルカン半島におけるユーゴスラビアのパルチザンに対する戦闘に関与せしめた。

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