以上の文明の諸特質は、それぞれより深く検討しなくてはならない。そして、ちょっと考えてみても、われわれの文明が必ずしも満足の行く状況にはないことを感じさせる。しかし、この論文は現在の政治状況に関するものであるから、最後の特質にわれわれの関心を絞ることにしよう。
その秩序の問題について、なによりもまず強調しなくてはならないのは、それが人間の努力によって、さまざまな妥協の結果として作られ、人工的で、それ故壊れ易いものだということである。また、その秩序の支配原則は微妙なものとなる。われわれ人間という存在の性格故に、そうならざるをえない。一方では人間は社会的存在であり、協力することによって多大の力を発揮する。しかし、他方人間は自我を強烈に主張する存在であり、それなしに進歩発展はありえない。
ところが、進歩発展の原動力である人間の自己主張は簡単に強欲につながってしまう。それもとくに自我が強かったり、妄執に動かされるものだけではなく、平凡な人々がそうである。そして、それは一人勝手の正義観につながる。パスカルが述べたように
「自己愛と人間のエゴの性質は自らのみを愛し、自らだけを顧慮することである。......さて、彼は彼が愛するものが欠点と短所だらけのものであるという事実を変えられない。彼は人々の間で愛と尊敬の対象になりたいと欲するが、彼の欠点が人々の憎しみと軽蔑の対象となるのを知る。それが生み出す当惑が彼のなかに、考えられうるもっとも不正で犯罪的な情念を生み出す。彼は彼をとがめる非難に対して殺してしまいたいような敵意を感ずる。......彼はそれを絶滅したいと思う。しかし、それは不可能なので、彼は自らの知識と他人の知識において可能な限り、それを破壊しようとする。すなわち、彼は彼の欠点を他人と自分からかくすことに力を傾ける」
したがって、強制のない秩序はありえない。だが、その強制が適当な範囲を超えることも決してまれではない。その場合、文明は致命傷を受ける。中東やアジアの文明がその秀れた能力にもかかわらず挫折したことの理由を、西欧の知識人の多くがその点に見たのは、彼らの文化的偏見もあるけれども、概ね正しいと言えるであろう。
それはともかく、問題の複雑さは、人間の自己主張が強欲に堕落する傾向と、強制が妥当な範囲を超える傾向とが相互に作用することによって一層著しいものとなる。だから、H・バターフィールドが言ったように、紙の上に憲法を書いても秩序とはならない。「国際連盟や国際連合を機械的に作ることは国際秩序を作ることにはならない」。妥当な範囲に強制力がおさまるような秩序のためには、人々の間に自律的な抑制が必要であるし、逆もまた真である。それ故そうした強制力に対する抑制要因も、個人に対する抑制要因も、共に微妙なものたらざるをえない。
政治に関する限り、文明の精神とはそうした微妙さを理解する能力である。二つの例をあげよう。ひとつは、イギリスにおける自由(freedom)と自由勝手もしくは放縦(liberty)の区別である。およそこの二つの言葉ほど曖昧な相違を含むものは少ない。前者はよい意味で使われ、後者はそうではないが、しかしつねに悪いという訳ではない(その意味で放縦という訳語は正しくない)。一応のところは、エドマンド・バークに従って、自由とは歴史を通じて形成され、制度化された権利であり、リバティはそうした洗練を経ないものとすることができるだろうが、後者は行きすぎることによって前者を危うくするものであると共に、その自然の源泉でもある。自由は認められるがリバティはそうではないなどという単純な思考では、とても正しい認識は得られない。こうして、自由とリバティの相違及び関連は、きわめて微妙なニュアンスの問題となるのである。だが、それを捉ええたところに、イギリス文明が成立しえたのであった。
もうひとつの例は力に関するものである。無力な政治家は偉大な政治家たりえない。説得しかしない政治家や道徳的原理をふりかざす政治家は、失敗するか、あるいは正義のための力の全面使用というさらに悪い行動へと走った。しかし、その逆が秀れた政治家であったという訳ではない。秀れた政治家は力を用いる能力と共に、その使用を抑制されたものとする能力があった。比較的最近の例で言えば、ビスマルクはそうした政治家であった。歴史は「血と鉄」で作られると演説した彼は力の有用性を信じ、それを使用したが、しかし、ドイツが統一され、目標が達成された後では、それ以上の力の増大を自制する立場を明白にとった。それに対し、彼の後継者たちは力の役割もしくはその使い方を知らないか、あるいはカイザーのように強欲になった。ビスマルクとその後継者の相違は、まことに重要だが――すなわち平和と戦争を分けるほどのものであったが――しかしきわめて微妙なものなのである。それを結果論ではなく、その当時に捉えるのが文明の精神なのである。ドイツの失敗の理由はその欠如にあった。
こうして、われわれは最初にあげた事例に戻ることになる。現在おこなわれつつある粗野な正義観と粗野な力の行使は、この節で述べた微妙なニュアンスのちがいを捉える精神、すなわち文明の精神に反するものなのである。しかし、そうした傾向はひとつの秩序が作られてから数十年も経つと、どうしてもおこってくるものなのである。
そうした時代に、どのように生きたらよいのか、私には確たる回答はない。どうしても嫌悪感と不安感が先立ってしまう。しかし、試みに言えば三つの努力が必要であろう。第一は、困難な時代に対処する覚悟と現実主義であろう。国際政治がより多くの激動とより深い昏迷によって特徴づけられることはまず間違いない。これまでに自明のこととなしえたことは、今日それほど確かではない、軍事力の不使用、内政不干渉、自由貿易といった規範は少し前ほど確かではなく、破られることがありうる。だから、それに対処する心構えと能力とが必要であろう。
それと共に、第二の必要として、われわれは平静さを可能な限り保つべきであろう。規範が犯されるということは、それがなくなるということではない。人間はそうしたとき、全面的な無政府状態が訪れつつあると思い勝ちだが、そうしたことはまずありえない。だから、われわれとしては文明の精神を守り、それが侵犯される範囲と領域とが広がらないようにすべきなのである。
最後に、われわれは今こそ冒険的精神を強調すべきであろう。ひとつには、ある秩序が作られて数十年して動揺がおこった後かつてのリーダーは再び――粗野な形ではあるが――そのリーダーシップを回復することが多い。それは当然質的に劣った文明の時代ではあるが、しばしばその期間に、新しい文明のあり方が生み出されるのである。だから、われわれは波乱ができるだけ少ない形で、文明の新しい方向が出現してくることを期待し、そのために努力すべきだということになる。もっとも、その点がわれわれ日本人にとってもっとも不得手なことかも知れない。こうしてわれわれはその真価を問われていると言えよう。
高坂正堯(Masataka Kousaka)
1934年生まれ。京都大学法学部卒業。京都大学法学部助手、助教授を経て、1971年に京都大学教授に就任。主な著書に『海洋国家日本の構想』(中央公論社)、『国際政治──恐怖と希望』(中公新書)、『世界地図の中で考える』(新潮選書)、『古典外交の成熟と崩壊』(中央公論社)、『文明が衰亡するとき』(新潮選書)、『外交感覚──同時代史的考察』(中央公論社)、『世界史の中から考える』(新潮選書)、『現代史の中で考える』(新潮選書)、『歴史としての二十世紀』(新潮選書)など多数。1996年逝去。
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