コラム

旧植民地の心の傷に思いを馳せない日本の出版社

2023年11月04日(土)19時28分
李登輝

日本に好意的だった李登輝だが...... Yuriko NakaoーREUTERS

<大手出版社の集英社が刊行している創業95周年記念企画「アジア人物伝」の最終巻が、李登輝を「中国」の人物として記載していることに、台湾で反発が広がっている>

日本の大手出版社、集英社が創業95周年記念企画として刊行している「アジア人物史」シリーズが、批判の矢面に立たされている。

発端は、2024年4月公開予定の第12巻「アジアの世紀へ」で、鄧小平や孫文らと並んで台湾の元総統・李登輝氏とチベットの宗教的指導者ダライ・ラマ法王を「中国の歴史的人物」として扱ったことだ。「李登輝基金会」の董事長(会長)で、李元総統の次女である李安妮は2日、「極めて残念に思う」との声明を発表した。台湾の行政院長の陳建仁も3日に立法院での答弁で、「台湾は独立した主権国家だと認識していた李登輝の生前の意志を集英社は尊重すべきだ」と、見直しを促した。権威ある国立の研究機関・台湾国史館の陳儀深館長も「李登輝元総統の伝記である以上、本人の意志から離脱したことが書かれるのは論外だ」とメディアに語った。

 

台湾教授協会の陳俐甫会長も「チベット人とモンゴル人、それに台湾人は中国人ではないのは自明のことだ。台湾人は日本で震災が起こるたびに支援してきたにも関わらず、裏切られた」と不満の声を発した。

李登輝氏は生前に作家の故・司馬遼太郎に「台湾人の悲哀」について訴えていたが、その悲しい声は日本社会に届かなかったのだろう。悲哀とは、台湾人はあくまでも独立した人格を持つ人間であるのに、他者即ち中国人だと一方的に断じられる悲しみを指す、と李登輝は以前に強調していた。

ではなぜ、日本を代表する「知の殿堂」でこのようなことが起こったのだろうか。そこには2つの要因がある。満蒙、即ち台湾と同じ日本の支配を受けた側の視点から指摘しておきたい。

第1に、日本には真摯に反省しようとしない植民地史観が健在である。日本の知識・学術界は戦後、政治家以上に痛切な反省を繰り返してきたが、実際はパフォーマンスに過ぎなかった。日本は台湾を清国から譲られた「化外の地」として50年間支配してのち、戦勝国の中国に引き渡して責任を逃れた。その際たる事例は1972年の断交事件で、中華人民共和国との国交を「回復」「正常化」することで、再び旧植民地を切り捨てた。

厳密に言えば、台湾は台湾原住民の国である。シナ・チベット語系の言葉を操る少数の政治集団(蒋介石の中華民国亡命政権)が入植してくるはるか以前に、オーストロネシア系の先住民が既に島を開発し、独自の文明を築いた。日本は、オランダの「フォルモサ統治」の後に占拠したが、無関係の中国に台湾を引き渡す文明史的根拠はなかった。李登輝も台湾人であって、中国人ではない。

プロフィール

楊海英

(Yang Hai-ying)静岡大学教授。モンゴル名オーノス・チョクト(日本名は大野旭)。南モンゴル(中国内モンゴル自治州)出身。編著に『フロンティアと国際社会の中国文化大革命』など <筆者の過去記事一覧はこちら

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:ドローン大量投入に活路、ロシアの攻勢に耐

ビジネス

米国株式市場=S&P・ナスダックほぼ変わらず、トラ

ワールド

トランプ氏、ニューズ・コープやWSJ記者らを提訴 

ビジネス

IMF、世界経済見通し下振れリスク優勢 貿易摩擦が
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:AIの6原則
特集:AIの6原則
2025年7月22日号(7/15発売)

加速度的に普及する人工知能に見えた「限界」。仕事・学習で最適化する6つのルールとは?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    「細身パンツ」はもう古い...メンズファッションは「ゆったり系」がトレンドに
  • 3
    「想像を絶する」現場から救出された164匹のシュナウザーたち
  • 4
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が…
  • 5
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長…
  • 6
    「二次制裁」措置により「ロシアと取引継続なら大打…
  • 7
    「どの面下げて...?」ディズニーランドで遊ぶバンス…
  • 8
    ロシアの労働人口減少問題は、「お手上げ状態」と人…
  • 9
    「異常な出生率...」先進国なのになぜ? イスラエル…
  • 10
    アフリカ出身のフランス人歌手「アヤ・ナカムラ」が…
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が話題に
  • 3
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 4
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長…
  • 5
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    アメリカで「地熱発電革命」が起きている...来年夏に…
  • 8
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 9
    ネグレクトされ再び施設へ戻された14歳のチワワ、最…
  • 10
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パス…
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が話題に
  • 4
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測…
  • 5
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 6
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 9
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 10
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story