コラム

遅咲き日系人作家が生み出した、ロス黒人街の「ホームズ」

2017年04月18日(火)16時00分

出版界にまったくコネがない無名の新人の作品だったが、IQはメジャーな新聞の書評欄で好評を得て、ベストセラーリストに入り、エドガー賞の新人賞候補にもなった。「自費出版で車のトランクに積んで売り歩くことだけは避けたい」と祈っていたイデにとって、この成功はショックですらあった。「家族のために作った料理が(料理のアカデミー賞と言われる)ジェームズ・ビアード賞を取ったような感じ」と彼は言う。

では、黒人の若者である主人公のIQは、どこから生まれたのだろうか?

少年時代のイデの愛読書は、シャーロック・ホームズの原作だった。12歳になるまでに、短編56作すべてを読了し、小説4作は何度も読み返したという。ホームズは、イデ少年のように内向的で、はみ出し者だった。タフガイではないのに、知性のパワーだけで敵を倒し、自分が住む世界をコントロールするホームズに、イデ少年は憧れた。

彼が育ったサウス・セントラル地区は、「学校への通学路が命を脅かすほど危険な地域」だったので、彼にとって、知性のパワーを武器にするホームズがすごく魅力的に感じたのだ。

「私の生い立ちと愛読書。これらの要素のすべてが自然に繋がり、『フッドのシャーロック・ホームズ』が誕生したのです」とイデは説明する。

【参考記事】トランプに熱狂する白人労働階級「ヒルビリー」の真実

58歳で作家デビュー

だが、アメリカの人種問題は取り扱いが難しい。アジア系コメディアンがアジア系を揶揄したり、黒人が黒人への蔑称を使ったりすることは許されるが、ほかの人種がそれをするのはご法度だ。そんなアメリカで、アジア系アメリカ人作家が、黒人社会の小説を書いたことに抵抗を覚える人はいなかったのだろうか?

そんな筆者の質問に対してイデは、「驚いたことに、アフリカン・アメリカンのコミュニティからは、まったくネガティブな反応はありませんでした。好意的に受け止められており、とてもうれしく思っています」と答えた。黒人女性だけの読書会でも課題図書に選ばれ、ゲストとして参加したりもしている。

58歳で作家デビューしたイデは、年齢制限があまりないアメリカでも「遅咲き」と言える。そして、一つの職業で「成功」した人でもない。黒人の友だちを羨望して真似したけれども、黒人になれたわけではない。自分を取り囲む世界への憧れと心理的な距離感を持って生きてきたことは想像に難くない。でも、そういう生き方をしてきたからこそ、まれな観察眼が鍛えられたにちがいない。

IQは、そんなイデだからこそ書くことができた作品であり、生み出すことができたクールな主人公だ。IQは、イデ少年がなりたかった黒人街のシャーロック・ホームズなのかもしれない。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:もう賄賂は払わない、アサド政権崩壊で夢と

ワールド

アングル:政治的権利に目覚めるアフリカの若者、デジ

ワールド

尹大統領の逮捕状発付、韓国地裁 本格捜査へ

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 4
    感染症に強い食事法とは?...食物繊維と腸の関係が明…
  • 5
    女性クリエイター「1日に100人と寝る」チャレンジが…
  • 6
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 7
    フランス、ドイツ、韓国、イギリス......世界の政治…
  • 8
    失礼すぎる!「1人ディズニー」を楽しむ男性に、女性…
  • 9
    オレンジの閃光が夜空一面を照らす瞬間...ロシア西部…
  • 10
    本当に残念...『イカゲーム』シーズン2に「出てこな…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 5
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 8
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 7
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 10
    「腹の底から笑った!」ママの「アダルト」なクリス…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story