9割が生活保護...日雇い労働者の街ではなくなった山谷の「現在を切り取る」意味
また、1985年に発表されたドキュメンタリー映画『山谷(やま)――やられたらやりかえせ』が誕生した背景と経緯をなぞり、前述した報道カメラマンの南條直子の短い人生を克明に追うなど、日が当たることのないこの街、そして、そこに生きる人たちの姿を描写する。
そこに映し出されるのはまさしく"流れ者"のリアルであり、だからこそ(私には同じような暮らしは自分はできないだろうなという思いが前提にあるけれど)「なるほどなあ」と思わせるものがある。
「ヤマから来た労働者ってのは、なぜだかその雰囲気で分かる。こう、背中を丸めてるような感じで、本人自身が使い捨てにされている、差別されているという思いがあり、その人をぎこちなくさせていたのかもしれない。この街には、いろいろな過去や重荷、言えない悩みを抱えた人がいて、周りからは冷たい目、現場では重労働、田舎では立場がないという人がやって来る。ただ、『自分は労働者だ』っていう誇りがあり、『働く仲間の会』っていうのをつくった。でもね、結局は呑んべえの会になっちゃったけど」(144ページより)
こう語るのは、第二次オイルショックの時代(1978年)から山谷に入ったという「玉三郎」。熊本の浄土真宗の寺院に生まれたものの寺を継がず、熊本、大分、沖縄、大阪と放浪し、28歳で上京したという人物だ。その道筋を見ても、行き場を失った彼を山谷が受け入れてくれたことを理解できる。
「山谷らしさ」が地域社会で求められているものなのか
なお、労働者の活気が満ちていたそんな時期の描写もさることながら、さらに印象的だったのは"現在"の山谷の姿だ。もう活気を失っているとはいえ、そこで生きていくことを決めた人、そういった人たちを支える人のあり方には納得させられるのである。