解体すると肉片、骨、衣類などが団子状に...... 中年男をえじきにする「巨大ヒグマ連続食害事件」とは
即座に噛み殺して、その肉を喰らい始め……(※写真はイメージです) jhorrocks - iStockphoto
同じ熊が何度も人を襲うことはないのか。ノンフィクション作家の中山茂大さんは「大正元年から2年にかけて、北海道の朝日村、愛別村などで起きた連続食害事件は同じ熊による犯行の可能性がある。最大8名を喰い殺した稀代の人喰い熊かもしれない」という――。
第1の事件「朝日村事件」
大正元年11月10日。士別村字上士別御料地在住の吉川伊平(37)は、近所の伊藤幸平を誘い、堅雪を踏みしめ、10線南10号山林中へ鉄砲を担いで出かけた。
吉川が獲物を見つけて発砲すると、音に驚いたヒグマが飛び出してきた。
いったん大木に登ったヒグマは、吉川を見つけると飛びおり、立ち向かってきた。吉川は直ちに第2弾を発射したが、ヒグマは吉川に襲いかかり、即座に噛み殺して、その肉を喰らい始めた。これを目撃した伊藤は恐れをなして逃げ帰った。
部落から銃を所持する6名が選ばれ、直ちに出発したが、現場に到着してみると、ヒグマは吉川の肉を半ば以上食い尽くし、逃げ去った後であった。
頭は半分引き裂かれ、耳も目も半分無く......
残った部落民のうち、屈強の壮者であった宮本米造(31)、平留吉(26または27)、千田宗太郎(24)、時山類作(不明)の4人が、吉川の死体を引き取りに、武器を持たず山に入った。
しかし、4人は不幸にも加害熊と行き合ってしまった。
最初に平が襲われ重傷を負う。次に宮本が大木の洞(うろ)に逃げ込んだところ顔面を強打された。次に千田がひと噛みにされて即死、最後の時山は、重傷を負いながらも近くの立木に登り、落ちないように体を帯で幹に結び付けて難を逃れた。
その状況を、地元紙は次のように伝えている。
「時山を木より下ろして見れば、頭は半分引き裂かれ、耳も目も半分無く、宮本は倒木の下に潜り込んでいて、かれこれするうちに40余名の部落民が行き、4人を持ち帰った時に医師も来たが、なにぶんの重傷で、平は10日午後6時半頃死亡し、時山は11日未明死亡し、宮本は余病発しなければ、一命は助かるであろうと」(『北海タイムス』大正元年11月17日)
4名もの犠牲者を出したこの朝日村事件は、「苫前三毛別事件」(死者7名。一説に8名)、「沼田幌新事件」(死者4名)、「札幌丘珠事件」(死者4名)に匹敵する大惨事である。
しかし資料が乏しいこともあって、現在ではほとんど知られていない。
第2の事件「愛別村事件」
この事件の翌年、約20キロ南の愛別村で、親子3人が自宅前でヒグマに喰い殺されるという陰惨(いんさん)な事件が発生した。
詳細は『アイペップト 第2集』(愛別町郷土史研究会)の、安西光義の回顧談に収録されているが、当時の新聞記事なども照会しつつ、事件を追ってみよう。
福島県信夫郡大笹生村から移住した熊澤豊次郎(36、一説に豊四郎)一家は、妻静江(31、同志げの)と11歳の女子、4歳(同5歳)と1歳の男子の5人家族であった。
大正2年9月27日、豊次郎は、長男一二三を背に提灯を提げて帰途についた。
自宅の手前にさしかかったとき、突然、蕎麦畑から一頭の大熊が現れ、背中におぶっている長男一二三に噛みついた。熊は一二三の脳天を割り、腕をくわえ振り回して、一二三の左腕を肩関節から千切り取った。
熊は豊次郎にも飛びかかった。豊次郎は腕力に自信があったので、「おのれッ」と叫び熊に組みついた。格闘となったが、もとより熊の力には及ぶべくもない。
豊次郎は家にいる妻の静江に向かって、「火を持ってきてくれ」と声の限り叫んだ。