「すぐ崩壊する」の観測を覆した金正恩の10周年、侮れない実力と「らしさ」
KIM JONG UN’S DECADE
正恩が就任前に抱いた懸念
正恩が公務デビューを果たした頃、父・正日が(そしておそらく息子の正恩自身が)最も心配していたこと。それは朝鮮人民軍内部での正恩の権力基盤をいかに強化するかだった。父から子への権力継承を円滑に進め、体制の安定を図るにはそれが不可欠だった。
だから正恩は10年の朝鮮労働党第3回代表者会で、軍を指導する中央軍事委員会の副委員長という重要なポストを与えられ、軍部を掌握できる立場になった。
父・正日の死後、正恩は4カ月で軍、党、政府における父の全ての肩書を継承することになるが、真っ先に(父の死からわずか13日後に)受け継いだのは朝鮮人民軍最高司令官の地位だった。
正恩は、国の実権を握ってから2つの難題に直面した。1つ目は、朝鮮労働党の立て直しを図ることだった。当時の労働党は、最高の権力機関とは名ばかりで、実際は何事においても軍を優先するという父・正日肝煎りの「先軍」政治のせいで深刻な機能不全に陥っていた。
結果、これが2つ目の難題なのだが、正恩が引き継いだ朝鮮人民軍は組織として大きくなりすぎ、しかも過大な権力を有するようになっていた。そこで正恩は、直ちに党の復権と軍の「正常化」に乗り出した。
党の機能再建は、実際には父・正日の最晩年に着手されていた。彼が軍を甘やかし、頼りにしていたのは事実だ。しかし息子への権力継承を確かなものにするには、党の後ろ盾が必要なことも理解していた。
だからこそ10年に、実に44年ぶりで党の第3回代表者会を開催した。以後、長く休眠状態だった党のさまざまな会議が復活し、正恩を頂点とした「集団的意思決定」のプロセスが党内で確立された(ただし、いわゆる「集団指導体制」とは違う)。
正恩は政権発足当初から、党大会や党の総会、政治局会議など、党のさまざまな会議を主催して自らの指導力を強化し、党の役割を国家に組み込み、党の権威を回復してきた。
12年4月の第4回代表者会で、党の最高職として新設された第1書記に正恩が就任したのもその例だ。さらに正恩の腹心と見なされていた党中央軍事委員会副委員長で軍総参謀長だった李英鎬(リ・ヨンホ)を解任(12年)し、叔父の張成沢(チャン・ソンテク)を粛清(13年)したが、いずれも公式には、正恩ではなく党政治局会議の決定とされている。