「すぐ崩壊する」の観測を覆した金正恩の10周年、侮れない実力と「らしさ」
KIM JONG UN’S DECADE
昨年1月の第8回党大会では、正恩の党内での肩書が「委員長」から「総書記」に変更された。これは、正恩が祖父や父の肩書を正式に継いだという点で象徴的な展開だった。同大会では党規約も改正され、労働党とその指導者としての正恩の地位は揺るぎないものとなった。
新たな党規約は、党を円滑に運営するために党幹部の間で責任を分散する一方、正恩は党内で「党中央」と呼ばれることになった。個人崇拝と見られるのを避け、党を前面に立てた格好だ。こうした措置の狙いは明らかで、金正恩政権の発足10周年を迎えるに当たり、党の権威を背景に彼の権力基盤を一段と強固にするのが目的だった。
さらに権力承継10周年に間に合うよう、国営メディアは正恩の呼称を「首領」に格上げした。父と祖父に奉られていた呼称だ。この言葉は対外的には「指導者」と訳される。
正恩は少なくとも20年後半には首領と呼ばれていた。同年10月の党創建75周年祝賀行事から少し後のことで、第8回党大会への布石という意味があった。それ以前にも、国営メディアでは3代まとめて報じるときなどに、正恩も含めて「首領」という呼称でくくることがあった。
軍部を掌握することにも尽力
権力を承継した初期の年月に、正恩は党の復権に邁進する一方で、軍部を掌握することにも力を尽くしていた。最高司令官に就任して間もなく、国防省に相当する人民武力部の閣僚や、実際に人民軍の作戦を指揮する立場の司令官たちを狙い撃ちにした粛清も進めている。
手始めに12年7月に総参謀長の李英鎬を解任した。また党中央委政治局における地位は政権のヒエラルキーにおける立場を測る尺度となるものだが、そこで人民軍総政治局長の格付けが下げられた。政権における軍部の影響力の衰退を反映する変化だった。
正恩にとって、19年2月の第2回米朝首脳会談が決裂・中断という事態に陥ったことは、屈辱だったばかりではない。その経験が尾を引いて本人の精神状態に影響を与え、正恩自身が国のために描く将来像に対しても、多大な影響が及んだものと考えられる。
そこで注目されるのが、その後の憲法改正を通じて指導者としての権威が強化されたことと、それと同時に国内のあらゆる分野で締め付けの強化が進んだという2つの事実だ。
同年の4月と8月、立て続けに憲法が改正された。前代未聞の展開である。祖父・金日成(キム・イルソン)と同じ国家主席という位置付けを復活させ、さらに多くの権限を与える改憲だった。