現在の論壇はイデオロギーから脱却しすぎて著者の顔が見えなくなっている
「カムイ伝」が掲載されていた雑誌『ガロ』の漫画のドラマとリアルな描写からそれとなく滲み出る「イデオロギー」に魅せられた大学生は多かった。やはり若者は無意識のうちに漫画の中からも、「イデオロギー」や思想性を求め、読み取ろうとしていたのではなかろうか。
つまり、読者、特に若くて知的関心の強いものは、客観的な事実や理論分析だけではなく、形而上学的な解釈を求め、書き手の想像力に期待するものだ(筆者の場合は、宗教には関心があったが、唯物論的なイデオロギーに興味はなかった。白土三平の『忍者武芸帳』よりも、イデオロギー色の全くない奇抜な発想の山田風太郎の忍者物が断然面白かったことを憶えている)。
いずれにしても、読者は、良質な形を取ったものであれば、宗教・思想あるいはイデオロギーに関連する問題に強い関心を持つものだと改めて感じる。
ところが、現代の論壇の特徴を一言で言うと、イデオロギーからの脱却を意識し過ぎて、政治や経済、国際関係の「科学的分析」を強調することにある。だが、この「科学的な」スタイルの学術的な論考に読者は親しみを覚えないのではないか。
とは言え、わたしは決してデータや資料を軽視していいとか、論理的な推論が無くてもいいと言っているのではない。情報の丁寧な分析や理論化の背後に、「想像力を働かせつつ主張する著者の顔」を読み取りたいのだ。実証性を重んじるあまり、「クセ」がなくなってはいないか。なにか学会向け論文のようになってはいないだろうか。
もちろん、単なるエッセイではなく、信頼できる情報に基づく論考でなければならないのだが、そこに何らかの筆者固有の新しい主張がほしい。
論壇誌の中には、イデオロギーや主張が強すぎ、内容が読む前に予想できるようなものもある。そういう論考は別にして、政治、社会、文化を論じた文章が、イデオロギー中立的、無色透明ということはあり得ない。考えや主張が著者の顔とともに浮かび上がるような「押しの強い」書き手が現れるのを期待したい。
例えば、『アステイオン』(2021・094)の北岡伸一「西太平洋連合を構想する」は、米国、中国ぬきの、日本、東南アジア諸国、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋島嶼国などの緩やかな連合体の可能性をかなり具体的に論じており、今後議論を呼ぶような興味深い提唱だ。これはわたしの言う「想像し主張する著者の顔が見える」論文だ。