「今、何が問題か」と問われれば、ただちに「中国」と答える
プルードンを嘲笑するその嘲笑にむしろマルクスのコンプレクスが潜むことを指摘したのはシュンペーターだが、『貧困の哲学』と『哲学の貧困』を読み比べるがいい。マルクスには専門知の傲慢、一党独裁の傲慢が抜きがたくある。
新疆問題にせよ西蔵問題にせよ香港問題にせよ、マルクスに惹かれたことのある者はすべて――私もそうだが――責任を取ってもらいたいと思う。マルクスには経済学があっても政治学も人間学もなかったとすれば、それはなぜか。
マルクス経済学をもっともよく読み込んだのはシュンペーターであり、だからこそシュンペーターのイノベーション論――新結合論――すなわち技術革新史観がマルクスの階級史観を抜くことになったのだと私は思っている。
このことは、それこそ石器時代からIT産業時代に至るまで技術革新が階級を作るのであってその逆ではないことに端的に示されているが、興味深いことにこの技術革新の問題を真正面から取り上げているのが文学畑の張氏である。産業によって雇用者数が違ってくる様子がよく分かる。
20世紀のソ連時代とは違ってきたのだ。21世紀、ITによる産業構造の変貌によって中国共産党上層部がアメリカ支配階級と結びつき――似たもの同士である――、アメリカはもとよりスイスにまで多額の資産を隠すほどになったわけだが、私はこれもまたマルクスの責任であると思っている。これを破壊するにはトランプのような、いわゆる知識人に嫌われる猛者が登場するほかなかったのだ。
苅部氏がイノベーションといえばすぐに理系と考える政治家や官僚を批判しているが、デッカーという若い研究者によれば、シュンペーターの新結合論に影響を与えたのはイタリア未来派だったという。
考えてみればシュルレアリスムなど新結合の見本のようなもの。20世紀の科学革命を支えたのは文系の着想であったということもありえないことではない。中西氏が鍵概念として用いる「品位」という概念も、背景に膨大な文系的つまりは歴史的知識、歴史解釈を引き連れていると思える。
だが、技術革新が社会問題、階級問題の様相を呈した始まりは宋代中国にほかならない。それがモンゴル帝国を可能にし、やがてイタリア文芸復興を可能にしたのである。内藤湖南から宮崎市定、岡田英弘までが説くところだ。
岡本氏は、今回はラッセルの百年前の論文を引いて中国風の気の長さを示しているが、かつて『世界史序説』において新疆を挟んで中国とペルシャが対の関係にあると論じていたのには驚嘆した。池内氏と対談すればさぞ面白いだろうと思う。