震災後、元に戻すのではなく、将来を考える
After a Disaster, Look Ahead To What Can Be—Not Back To What Was
危機のときこそ「創造的に考える」
津波の後の暗い日々に、私は、ある考えに行きついた。宮城を震災前の状態に戻すだけでは不十分である。未来ある人々のために、宮城をより強く、そしてより良くする必要があるということだ。そして、私たちの子供たちや孫の命を守るために、私たちは沿岸部に沿って非常に高い防潮堤を建設した。あの津波を止めるためではなく、その次に、そしてさらにその次に来る津波を止めるための壁だ。
長期的な視点が意味するのは持続可能性である。以前から分かっていたことだが、宮城には持続可能と言えない部分もあるということが震災後にさらに明白になった。製造業が基幹産業である国であるにもかかわらず、私たちの経済はサービス業に過度に依存しており、他の場所に本社を持つ企業の支店による経済が中心を成していた。ネット時代では支店は減る一方である。そのため、私たちは、宮城における生産拠点を新設及び拡大するよう企業を説得した。その結果、製造業が宮城の経済に占める割合は2008年の12パーセントから17パーセントにまで成長した。
同様の構造変革への考え方をヘルスケアやエネルギー分野にも応用し、医師の慢性的な不足に対応するため、日本で37年ぶりに医学部を新設し、さらに400の公共施設をクリーンで分散型の太陽光発電のハブに転換した。これらの取り組みは、震災前の状態に戻るという考え方だけでは達成し得なかったであろう。
復興に重要なことの二つ目は、「アウトサイト・ザ・ボックス(井の中の蛙にならず)」のように「創造的に考えること」である。時代遅れの方法を考え直し、過去と決別することも、危機がもたらす機会の一つである。
震災の教訓はポストコロナにも
宮城においては、公共部門と民間部門の協力がそれにあたる。伝統的で閉鎖的な公共部門に民間とのパートナーシップや企業の資本・ノウハウを取り入れる取り組みは、当初は困難と考えられていた。しかし、これらをまずは水産業に導入した。水産業は震災前では日本で第2位の規模を誇ったが、震災で壊滅的打撃を受けた。しかし、それが現在は震災以前の状態まで回復した。公共部門と民間部門のパートナーシップは、水産業から観光業に至るまで、宮城のあらゆるものの復活を助けてきた。2016年に民営化された仙台国際空港は、交通が止まるパンデミック前には震災以前の2倍盛況となり、海外からの到着者数は3倍に増えた。
そして三つ目のアドバイスは、相互協力の重要性を理解すること。誰も一人では災害から立ち直ることはできない。個人、地域、そして国は共に歩む友が必要である。それは私たちにとって、日本中の人々、そして日本の長きにわたる同盟国であるアメリカを含む世界中にいる人々である。瓦礫を処理し、多大な被害を受けた仙台空港を修繕することで多くの救援物資の供給を可能とした米国軍の何千万人もの人々に対する感謝の気持ちは一生忘れない。2011年のバイデン副大統領(当時)による訪問は、助けを求める人々を支えるというアメリカのコミットメントを思い出させるもう一つのきっかけとなった。
こうした取り組みは日本語の"友達"をもとにTomodachi作戦と名付けられた。これは長期的で協力的な考え方の一例として、震災以降、教育や文化的な交流を通して日本とアメリカにおける次世代のリーダーを育成するためのプログラムであるTomodachiイニシアチブに進化した。
先月に起きた地震が私たちに思い出させたように、自然災害による危機はいつでも存在する。いかに準備し対応するかが重要である。自然災害による混乱が起きた時に私たち自身、子供たち、そして手を差し伸べてくれた人々にとって最善のことは、さらに強くなって戻ってくることである。パンデミック後の世界にも、この教訓は当てはまる。信念と、友人と友好国との間の協力によってのみ、私たち人間の歴史の新たなページはより良いものとなる。