最新記事

研究

丸山眞男研究の新たな動向

2020年9月9日(水)17時10分
苅部 直(東京大学法学部教授)※アステイオン92より転載

『みすず』二〇二〇年一・二月合併号「読書アンケート特集」に載った上山安敏の回答によれば、『丸山眞男の教養思想』の著者、西村稔はこの本の刊行後に亡くなったという。闘病生活を送りながらまとめた大著であるから、記述に重複があったり、索引が不十分だったりするのはそのせいだろう。西村の師であった上山はこう述べている。「記者出身の彼の筆致の裏にはジャーナリズム=編集者の感覚がある。偉大な日本人の成し遂げた業績を学者として丹念に資料操作していくと同時に編集していく伎倆には脱帽する他ない」。まさしく、厖大な資料を集め、編集することで成った一冊であった。

やはり丸山眞男文庫の資料をふんだんに用いた研究論文として、阪本尚文「丸山眞男と八月革命(一)ーー東京女子大学丸山眞男文庫所蔵資料を活用して」(福島大学『行政社会論集』二十八巻一号、二〇一五年)がある。西村は阪本からの資料提供も受けながら、知識人と政治との関係、および「教養思想」の展開という角度から、丸山の思想を分析する。もともと西洋法制史の研究から出発して、近代社会を支える「教養と作法」の重要性に関心をもち、大正時代以降の「教養思想」の流れのなかに、丸山の思想を位置づけようとした仕事である。

西村は、一九六〇年の日米安保条約反対運動のあと、丸山が時論を発表する知識人としての活躍から「撤退」したのち、「教養」としての学問のあり方についての考察を深めたと見る。それはまず、日本政治思想史の講義における、日本思想史に一貫して持続する「原型」「古層」への注目として現れた。他面で丸山は論文「幕末における視座の変革」「開国」「忠誠と反逆」において、前近代の日本思想から普遍主義的な要素を掘り出し、それを再認識するところから、知識人の「知的共同体」を再建しようとしたものの、歴史学の営みとして「本当の普遍主義」を提示することは、ついにできなかった。そうした経過を詳しく明らかにする過程で、旧蔵書のなかにある吉本隆明『丸山真男論』に書き込まれた、丸山自身による吉本への反論に言及するなど、未公刊の資料も多く使っている。

普遍的な思想が根づいているとは思えない日本社会に対して、「本当の普遍主義」を広めるのが知識人の使命だが、それはどうすれば可能なのか。西村の研究は、丸山のこの問題関心を引きうけようとする意識から出発していると言えるだろう。清水靖久の『丸山真男と戦後民主主義』が、丸山と東大紛争との関係を掘り下げるところにも、同じような関心をうかがうことができる。「本当の普遍主義」の重要な要素である「民主主義」を、反乱学生たちがまるで理解せず、日本的な「原型」のままにふるまっていると見なす。そうした丸山の姿勢に対する清水の批判は、厖大な資料収集によって裏打ちされた深いものになっている。従来よく見られた、全共闘から殴られたことをきっかけにーーこれ自体、事実に反した風説であることも清水は明らかにしているーー学問に沈潜し、論壇では沈黙するようになったとこじつける丸山批判とは、質がまったく異なっている。

【関連記事】それでも民主主義は「ほどよい」制度だろう

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 4
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 5
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 6
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 7
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 8
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    雪の中、服を脱ぎ捨て、丸見えに...ブラジルの歌姫、…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 6
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 7
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 10
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中