ジェンキンス死去、波乱の人生の平穏な最終章
ただ日本での生活も当初は平穏なものではなかった。曽我の故郷である佐渡島に渡ってからも、時の人として注目を浴びる日々を過ごした。言葉の分からない国で自分を取り巻いて繰り広げられる喧騒――。そんな生活の中で酒の量が増えた時期もあった。
好きなバイクを3台所有
ジェンキンスは佐渡でどんな暮らしぶりだったのか。日本語を学ぼうとしなかったジェンキンスの唯一と言っていい友人で、通訳を務めていた本間啓五は、「日本での生活を満喫したと思う。縛るものは何もなく、自由に暮らせたのだから」と語る。
例えば、大好きなバイクを3台所有し、天気のいい日は佐渡島をツーリングした。そんなことから、バイク雑誌の表紙を飾ったこともあった。しかし「バイクは危ない」という妻の要望で、ジェンキンスは70歳を機に乗るのをやめた。
普段は佐渡市内の土産物店に勤めていた。職場には自慢の軽自動車で通勤し、遅刻することはなく、勤務態度は至って真面目。12年に筆者が取材した際に、「北朝鮮での年収を1カ月ほどで稼げるからやりがいはある」と目を輝かせて語っていたジェンキンスは、仕事に生きがいを見いだしていた。
自宅に帰ると、介護施設に勤める勤務時間の不規則な妻と保育施設で働く長女の帰宅を待ちながら、好きな酒を飲んだり、自宅裏の畑をいじったりした。相変わらず酒はよく飲んだが、健康状態は良好だった。
夫婦の仲も悪くなく、本間に言わせると「どこにでもいる夫婦」だった。酒を控えるよう曽我に言われていたジェンキンスは、自宅の蔵などあちこちに酒を隠していた、と本間は笑う。家で1人のときは、溺愛していた愛犬のゴールデンレトリバーをそばに置いて、蔵で飲むこともあったという。
ジェンキンスは、妻が積極的に参加する拉致被害者の早期の帰国を求める署名活動に姿を見せることはほぼなかった。帰国者による節目の会見などにも顔を出さなかった。「日本語がしゃべれないから」と言う人もいるが、署名活動なら言葉は必要ない。拉致被害者ではないという自身の立場から、あえて一歩引いて、積極的に関わらなかったと指摘する関係者もいる。
そんなジェンキンスに転機が訪れたのは、2年ほど前のこと。愛犬のゴールデンレトリバーが死んだのだ。さらにその数カ月後には、まだ結婚前だった次女ブリンダの誕生日にジェンキンスがプレゼントしたチワワも死んだ。
ジェンキンスは、それまで見たことのないような落ち込みぶりだったと家族や知人は口をそろえる。周囲は「ペットロス」になったジェンキンスの様子をかなり気に掛けていたという。