習近平が絶対的権力を手にした必然
しかし「アラブの春」で流れは変わった。欧米の文化的侵略に対する疑心暗鬼が、エジプトのタハリール広場に広がった光景で新たに高まった。中央アジアでも民主化を求める大きなデモが起き、「カラー革命(色の革命)」が中国にも押し寄せるという不安が頭をもたげた。
そもそも中国共産党の権威は革命で流した血の上に築かれている。しかし、血というならば半世紀前の文化大革命と89年の天安門事件で流された若者たちの血もある。
その記憶が「アラブの春」でよみがえり、民衆反乱の脅威を切実に感じた共産党指導部は、アラブ諸国での反乱、欧米が支援した「不誠実な形の革命」として否定するしかなかった。
国外にいる反体制派の人々がネット上に「中国のジャスミン革命」を呼び掛けるいくつかの書き込みを行っただけで(もちろん実現することはなかったが)、北京では警備が大幅に強化された。そして中国の当局者たちは、こうした動きの背景にはアメリカの諜報機関がいると語り、誇大に宣伝したのだった。
エドワード・スノーデンによってアメリカの諜報活動の猛烈さが暴露されると、欧米の脅威に対する警戒感は一段と高まった。そして10年から12年にかけて、国内に潜むCIAの情報網が摘発された。こうなると、もう手綱を緩めてはいられない。しかし当時、こうした危機感を最も強く抱いていたのは習ではなく薄だった。
「重慶モデル」を乗っ取る
主要都市・重慶のトップを務めていた薄は、地方政治家にしては異例の注目を集めていた。07年に重慶市共産党委員会書記に就任して以来、猛烈な勢いで市内のマフィア撲滅運動を展開し、最終的に組織犯罪を壊滅させたと豪語していた。
その後、公共サービスや公園、都市住宅の拡大を図り、地元での支持を確立。薄の政策は「重慶モデル」と呼ばれ、称賛された。12年秋の第18回党大会では最高指導部入りが噂され、習の強力なライバルになると思われた。しかし、全ては一瞬にして崩壊した。
12年2月6日、薄の側近だった王立軍(ワン・リーチュン)が突然、重慶から遠く離れた成都のアメリカ総領事館に駆け込み、政治亡命を求めた。王は、薄の妻がイギリス人実業家を殺害したと訴えていた。
真相がどうあれ、王の駆け込み事件は薄の政敵、特に習に格好のチャンスを与えた。薄は3月15日に職を解かれ、4月10日には正式に捜査の対象となり、翌年7月に正式に告発された。
厳密に言えば、薄の粛清はまだ胡が最高権力者だった時期に行われた。おかげで習は、全ては党の結束のためであり、個人的な野心とは無関係だと言いつつ自分の潜在的な政敵を追放する一方で、薄とそっくりな政策を進めることができた。