困難と良心を前にして──マニラのスラムにて
リカーンの本部にて
そのあと、俺たちはジェームス・ムタリア、ロセル、谷口さんというメンバーでMSFの車に乗って30分ほどケソン市を行き、ドクター・ジュニスに会いに行った。滞在2日目の夜にも会ったリカーンの創始者の一人だ。本部は閑静な住宅街の中にあった。
フィリピン編3にも少し書いた通り、80年代中盤からガブリエラという女性団体の一部だったリカーンは、13人で1995年に独立。コミュニティに根付いたクリニックの活動を、医師、看護士、助産師が中心となって進め、次第に思春期の子供たちにも救援の手が届くようになって、国連からも研修方法の連携依頼があるほどになった。
それを白髪のドクター・ジュニスはゆっくりと正確な記憶しか話そうとしないかのように、時に鼻眼鏡の奥から天井を見上げ、時に俺の目をじっと見て言葉を紡いだ。
多くの成果を上げながらも、ドクター・ジュニスは決して満足していなかった。今から先の目標を聞くと、彼女は即答した。
「ケアの質を上げること」
きわめて具体的で基本的で、しかし絶対に忘れてはいけないことだった。
途中で食事をどうぞと勧められ、おいしい魚料理や鳥を揚げたもの、野菜炒めなどでごはんをいただいた。その場にはドクター・ジュニスの旦那さんも来てくれたのだが、とても意志が強そうで眼光も鋭かった。ああ、活動家だった人だなとすぐにわかった。
ドクター・ジュニス自身、マルコスの暴虐に対抗して地下活動を長く行い、公民権を奪われて保健医療サービスも受けられず、出産が困難だったらしい。そしてその夫もまた3回の逮捕歴があった。
そうやって彼らは国をよくしてきたのであり、今もって貧しい人たちをどう助けるかに力を注いでいた。
そして今また、力に逆らうと直接的な危険のある政権のもとにいるのである。
「総合的に妊産婦ケアが出来る病院が出来たら、それは夢のようなことね」
ごはんを食べながらドクター・ジュニスはそう言った。その夫はじっと黙ってチャプスイをすくって飲んでいた。
「僕らMSFとデータを共有して管理出来たら、より総合的な医療が期待出来ると思うよ」
ジェームスはいつものように簡潔に要点を述べた。ドクター・ジュニスは目を見張った。
そこからは現地団体リカーンが出来ることと、MSFが出来ることをどう組み合わせるべきかの議論に移った。
もちろんそこにはMSF香港所属のフィリピン人であるロセルも対等に参加した。討論はあちこち議題を越えつつ進む。立場も人種も性別も違うが、彼らはいつでも議論するのだ。MSFの他の地域でもよく見られる光景である。