子供、子供、子供――マニラのスラムにて
ある路地を抜けて石造りの家の横を右に折れるとちょっとした広場があり、バスケットコートになっているのがわかった。そこに70人ほどの女性が集まり、プラスチック椅子に座って向こうのリナの話を熱心に聞いていた。どこかで鶏が鳴き、やっぱり子供が母親たちのまわりで走ったりコンクリの上で寝転がったりしていた。
俺たちが近づくと、女性たちは闖入者が珍しいのだろう、気にしないふりをしながらわかりやすく動揺してこちらをちらちら見た。リナは慣れたものでまったく調子を変えず、熱弁をふるった。女性たちはすぐにそのスピーチに注意を戻し、笑ったり質問をしたりした。
ロセルに聞けば、リナは1日に3セッションを担当するのだそうで、俺たちが見ているのはまさに朝一番のものらしかった。なにしろ巨大バランガイなので集合する者が幾つかに振り分けられているとのことだった。
テーマはもちろん避妊と子宮頸癌。だからこそ女性たちは真剣に聞いた。彼女たちは避妊を切実に求めているそうだった。まわりを見ればよくわかる。子供は日々産まれて来る。夫は避妊に協力的ではない。ゆえに彼女たちが意識を高めなければ、貧困はより過酷になる。それは結局、産まれる子供に重圧をかけるのである。
女性たちの何人かが手に持つノートは古びていて、小さな文字がびっしり書き込まれたそれが時には透明なビニール袋にしまわれていたりした。いかに紙が大切か、また家に雨漏りがするかがわかって俺は切ない気持ちになった。
ひとつのセッションが終わると女性たちはがやがやとその場を去った。残るのは近所の子供たちのみになり、中でも小さな女の子たちがロセルと谷口さんを囲んで彼女らが話すのをじっと見ていた。ロセルたちがどんな服を着ているのか、どんなピアスをしているかを憧れるように確かめているのだった。
俺がその模様をメモっていると男の子も女の子も集まってきた。書いている日本語を穴があくほど見つめる女の子がいるので、俺が目をみるとにっこり笑った。そして彼女はまた読めないはずの文字に目を向ける。
その好奇心の強さが戦後の日本人のようだと俺は思った。考えれば子供の多さがそうだった。俺の子供時代、東京の下町にもびっしり子供がいた。子供が泣き、子供が叫び、子供がじっと何かを見ていた。だから大人も寛大だったし、彼らの手本であろうとした。子供は生まれついての興味のまま世界を知ろうとした。
「日本語(ジャパニーズ)だよ」
と言うと女の子が、
「日本語」
とすぐに返してきた。すると俺を囲んでいた子供たちが口々にジャパニーズ、ジャパニーズと言った。ひとつ何かを知って彼らはうれしいのだった。
俺はメモることもないのにメモ帳に文字を書いた。それを見ている子供たちのために。
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