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追悼年表で見る「民主化に捧げた40年」
韓国の金大中大統領は、40年間に及ぶ政治キャリアの大半を反体制派として過ごしてきた。数々の苦難を乗り越えて、南北統一への道を切り開いてきた。
1960年代
金大中は1950〜60年代を通じて、韓国の軍事独裁政権に立ち向かい続けた。生来の演説のうまさを生かして61年に国会議員に初当選するが、直後にクーデターを起こした朴正煕(パク・チョンヒ)に議員資格を剥奪される。63年には再び議員に返り咲き、以降は野党勢力のリーダーとして朴政権に抵抗し、民主化の実現を訴えた。
73年
反政府運動の準備をするために日本を訪れていた8月、東京のホテルで拉致される。船で沖合まで連れ出された後、板に縛りつけられてコンクリートの重しとともに海に沈められそうになり、「自分はもう死ぬのだと思った」と、本人は後に語っている。しかしアメリカの圧力を受けた朴政権は金を解放。拉致から5日後、ソウルの自宅近くの路上で保護された。
80年
民主化要求運動が高まるなか、全斗煥(チョン・ドゥファン)が軍事クーデターで政権を奪取。戒厳令の下、金は逮捕され、60日間にわたって韓国中央情報部(KCIA)で尋問を受ける。これをきっかけに金の故郷である全羅道の光州で学生や市民の暴動が発生。軍による鎮圧で多くの犠牲者が出る。
金は裁判にかけられ、内乱陰謀罪などで死刑宣告を受けるが、韓国政府は無期懲役に減刑。金は83年、実質的な国外追放の形でアメリカへ出国する。85年に帰国。
87年
与党・民主正義党による民主化宣言の結果、16年ぶりに実施された大統領直接選挙に出馬。政権交代の機運が高まったが、同じ反体制派でより穏健な金泳三(キム・ヨンサム)と野党支持票を奪い合う形となり、全斗煥の後継者である軍部出身の盧泰愚(ノ・テウ)に敗れる。金大中と金泳三は長年、民主化運動の同志として親しい関係にあったが、選挙を機に対立を深める。
90年代
盧政権の強権的な政治手法に抗議し、90年にハンストを決行。92年に再び大統領選に出馬するが、金泳三に敗れる。1度は政界からの引退を表明したが、97年の大統領選に出馬。与党候補を僅差で破り、4度目の挑戦でついに当選を果たす。
大統領就任後は財閥改革などを断行し、通貨危機に見舞われた経済の立て直しに力を注いだ。一方、北朝鮮に対しては「太陽政策」と呼ばれる柔軟路線で臨み、2000年6月には歴史的な南北首脳会談を実現させた。
[2000年10月25日号掲載]