「自尊心だけが唯一残されたもの」...18歳で旧ソ連からアメリカに渡った私が支援活動で知った、ウクライナ難民の苦悩
I'm Helping Ukrainian Refugees
18歳でアメリカに移住した筆者(白黒の写真は英語に苦労した祖母) MASHA RUMER (2)
<たどたどしい英語を遮られても、私に決して代わりに話させようとしなかった祖母が重なる...>
コロナ禍が始まって1年ほどたった頃、主に旧ソ連圏出身の高齢の移民向けに、アメリカ市民権取得のための試験対策を指導するボランティアを始めた。
私は元教師だし、30年前に18歳でアメリカに渡ってきて同じ試験を受けた経験があった。
教え子のほとんどは、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバなどからやって来た中高年女性だった。アメリカの歴史や政治についての知識は問題なかったが、英語は苦戦した。
レッスンでも文法を間違えたり、亡き夫の名前や出身地の住所のつづりを間違えたり。涙を流す女性もいた。私にできるのは、励まして練習を続けさせることだけだった。
このような女性たちは私の祖母を連想させた。
ウクライナのユダヤ人コミュニティーで暮らしていた祖母は、1930年代にソ連の政策による大飢饉で膨大な数の人が餓死した「ホロドモール」とナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺ホロコーストを生き延びた人物だ。
10代の頃には、貨物列車に乗り込んで、ドイツ軍から逃れた経験もある。そんな祖母がアメリカにやって来ると、新たな試練が待っていた。
その試練とは英語だ。祖母はくじけず、あらゆる機会に英語を使おうとし、バスの運転手や図書館の職員、そして医師にも英語で話した。
医師は、祖母のたどたどしい説明を遮ったり、いら立たしげに時計を見たりすることもあった。
それでも、祖母は決して私に代わりに話させようとしなかった。自分の運命について語る役割を他人に任せる気はなかったのだ。
2022年2月、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、多くのウクライナ人がアメリカに逃れてきた。私はカリフォルニアにやって来た人たちのために、通訳などの支援活動も始めた。
ある母親は、まず娘の英語教師を見つけたいと言った。ウクライナの学校では優等生だった娘が、アメリカでは学校からいつも泣いて帰ってくるとのことだった。