音楽界のカメレオン、セイント・ヴィンセントが70年代に回帰
St. Vincent’s Latest Persona
「ザ・メルティング・オブ・ザ・サン」では、社会の理不尽な仕打ちに耐えた女性アーティストをソウルフルにたたえた。「ニーナ・シモンは公民権運動を支持したことで、トーリ・エーモスは性暴力に声を上げたことでバッシングされた。ジョニ・ミッチェルは時代の先を突っ走り、多くの男性アーティストより頭一つ抜けていたのに、世間は彼女の才能のすごさを認めようとしなかった」
ハリー・ニルソンの「うわさの男」を思わせる「サムバディ・ライク・ミー」は、フォークな味わいが異彩を放つ。
クラークはこの曲で愛を掘り下げた。「愛を合意に基づく幻想として捉えた。恋人たちは結託して、愛という幻想を築く。信仰と同じで、愛にも信じることで現実になるという側面がある」
父親の投獄への怒りと悲しみもテーマに
ラストを飾る「キャンディ・ダーリング」はウォーホル映画に出演したトランスジェンダー女優、キャンディ・ダーリングへの賛歌だ。時代を駆け抜け、白血病のため29歳で早世した伝説の女優を、クラークは「途方もない人生を生きた人」と表現する。
「キャンディの昇天は、アップタウン行きの最終電車でダウンタウンを去っていくイメージ。常に自分に正直で、ゴージャスな魅力を振りまいているけれど、機嫌を損ねたらナイフでぶすっとやられそう──そんなキャンディにラブレターを書きたかった」
「ダディー」は父親だけでなくポン引きなども指す言葉だから、「ダディーが帰ってきた」という意味のアルバムタイトルに一抹のいかがわしさがあることは本人も認める。
だが裏にはつらい事情がある。2010年に父が株価操作に関与した罪で12年の実刑判決を受けたのだ。父は19年に出所したが、「腹が立つやら悲しいやら。曲にすることで、この出来事を消化しようとした」と、クラークは語る。
07年に『マリー・ミー』でさっそうと登場し、評論家受けのいいインディーズアーティストから、名実ともに一流のポップスターへと進化した。「名声に関心がないわけじゃない」と、彼女は言う。
「今はカフェでときどきコーヒーをサービスしてもらえる程度の知名度だけど、これがちょうどいい。町でファンに声を掛けられるのもうれしい。18歳でブレイクしたわけじゃないから、私は人として成長しつつ、ミュージシャンとして成長してきた。だから簡単に名声にのぼせたりしない」
成長しつつ、クラークはカメレオンのようにキャラクターを変えた。現在はダーリングに着想を得ているが、実像に近い分身はいるのか。
「あっちを強調したりこっちを抑えたりしているだけで、どの人格も私の中にある」と、クラークは答えた。「素顔を出すより、キャラクターを作るほうが私には面白いのよ」