過剰だけど美しいギャツビーの世界
原作で記憶に残るイメージやシーンは、ここぞとばかりに再現される。巨大な目を描いた眼科医の古看板、ギャツビーが次々に放り投げてデイジーを泣かせる高級シャツ(3D映像ではシャツが客席へ飛んでくる)。
この「芝居っ気たっぷり感」にうんざりすることが何回もあった。初めてギャツビーの顔が映し出されるとき、その後ろには夜空の花火、流れるのはガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」......。
説明がくどいシーンも
それでも凝った映像には目を見張らされる。原作ではニックがパーティーで窓の外を見ながら「尽きることのないさまざまな種類の生活に魅せられた」と思う場面を、マンハッタンのビルの窓に変えたのはうまい。
ディカプリオほどギャツビー役にふさわしい俳優はいないと思う。少年ぽさや、無邪気にカネと社会的地位を追い求める姿を巧みに表現し、キャサリン・マーティン(ラーマン監督の妻)が担当した豪華な衣装で観客を魅了する。
とはいえ説明がくど過ぎるシーンもある。ギャツビーが指輪をした手を緑色の灯に向かって伸ばす場面では、ご丁寧にも、「謎めいた隣人が対岸の桟橋に輝く緑の灯に向けて手を伸ばすのを見た」というニックのナレーションが重なる。
デイジーとギャツビーよりも、ギャツビーとニックの関係のほうが生き生きして説得力がある。マリガンはデイジーを演じるには繊細過ぎたのかもしれない。映画の最終部分で、デイジーは冷酷で「自分しか愛せない」面を見せつけるのだから。
拾い物は、ジョーダンを演じたオーストラリア出身のエリザベス・デビッキだ。原作でニックは彼女を、「素敵なイラストのように気取ってあごを少し上げ、髪は紅葉のようだ」と言う。デビッキには、この描写にふさわしい落ち着きがある。
彼女が画面に現れると騒がしさが一瞬収まる。この熱っぽくて説明だらけの映画にも、つかまえどころのない人物がいるのはほっとする。
© 2013, Slate
[2013年6月18日号掲載]