アメリカは日本にはならない、普通なら
理由のひとつは恐怖心だ。日本の失われた10年はアメリカ人にとって記憶に新しい出来事だ。警鐘を鳴らす手段としては、大恐慌といった歴史に残る不況の例よりも手軽に利用することができる。
また前述したとおり、日本の失われた10年をめぐる議論は米政府の景気刺激策をめぐる議論の裏返しである。米政府が再び刺激策を実施することはあり得ないというのは周知の事実だから、かえってこの議論は激しさを増している。
日本の前例に学ぶべき点も
だが感情や政治の問題はさておき、日本の経験には学ぶべき部分もある。
例えば政府による景気刺激策は場合によっては役に立たないこともある。少なくとも(1)不景気になってから時間が経ち過ぎている、(2)金融政策との連携が取れていない、(3)規模が小さすぎる――の3つの条件下ではそうだ。
日本はたぶん、全ての条件に当てはまった。今回のアメリカの景気刺激策で問題になるとすれば3つ目だろう。
もう1つ問題がある。アメリカの金融機関は本当に不良債権の処理を終えたのか。それも完全に身ぎれいになったのか。
バブル後の日本において、銀行の状況たるやまるで話にならなかった。自己資本は不足し、多額の不良債権を抱え、粉飾決算も行っていた。
アメリカの銀行がそこまでひどいと考える人はほとんどいないだろう。公的資金の注入は迅速に行なわれ、多くの金融機関の決算は比較的堅調だ。にも関わらず、一部のエコノミストは不良債権の割合が今も増え続けていることや、銀行がどれほど不良債権化の可能性のある資産を抱えているかについて公表していない点を不安視している。
だが日本型バブル後遺症への警鐘を鳴らしている人々がこうした正当な懸念を根拠として持ち出すことはない。これこそ、この警戒論がいかに政治的なものかを示す悲しくかつ雄弁な証拠だ。
(Slate.com特約)