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スラムドッグの抜け出せない監獄
インドのスラム地区出身の本誌記者が回想する映画『スラムドッグ$ミリオネア』で描かれない真実
映画『スラムドッグ$ミリオネア』を見に行く途中、タクシーの運転手に頼んでコルカタ(カルカッタ)市内のタングラ地区を通ってもらった。このインド東部の都市にあるスラム地区に、私は10代後半のころ暮らしていた。35年以上昔の話だ。
ほとんど変わっていなかった。迷路のように入り組んだ狭い通りに、金属板とポリ袋でつくった粗末な小屋。ガリガリにやせた男が道端でかみタバコをくちゃくちゃやり、裸の子供たちが路上で排便し、空き缶を抱えた女たちが公共の水道の蛇口の前に列をつくる。
ゴミと排泄物の臭いが充満しているのも昔と同じ。60年代と違うのは、いくつかの小屋にカラーテレビがあることだけだった。
私は今でも、どうやって自分がそこから抜け出せたのか不思議に思う。今年のアカデミー賞で8冠に輝いた映画『スラムドッグ$ミリオネア』の主人公のジャマールは、いかにも映画らしく、愛と勇気と幸運の力で道を切り開く。この映画はインドのスラムの実態を「リアルに」描いたと言われるが、実態はそんなものではない。
スラムの生活はいわば監獄だ。恵まれた人たちとの落差を見せつけられれば、自信を胸にいだき続けられるはずがない。プライドを奪われ、大きな夢と想像力をなくす。住み慣れたスラムの外に一歩出ると、たちまち途方に暮れてしまう。スラムの住人の大半に、ハッピーエンドは待っていない。
ジャマールと違って私は孤児ではなく、両親は東ベンガル(現在のバングラデシュ)の比較的裕福な家庭の出身だった。しかし両親は新婚時代に宗教対立による暴動で財産をほとんど失い、インド北東部ビハール州の州都パトナに逃れた。その町で私は生まれた。
いちばん上の妹はある雨の夜、ネズミがはい回る粗末な小屋で産声を上げた。遠くの建築現場で働いていた父は不在で、3歳の私と6歳の兄が助産師(文字の読めないアヘン常用者だった)を呼びに行った。戻ってきたとき赤ん坊はもう生まれていて、助産師はへその緒をカミソリで切断し帰っていった。母は翌朝まで、赤ん坊が濡れないように小屋の中で雨漏りのしない場所を探して過ごした。
警察を逃れて生きた日々
私たちがそのスラムを抜け出したのは3年後。父が建設会社の事務の仕事に就き、ダム建設現場の近くに引っ越した。家族全員で一部屋の「新居」だったが、スラムに比べればよっぽどよかった。私は近くの学校に通いはじめた。
10代になるころには、地元のギャングに加わっていた。ギャングの一員になることで、自信と安心と興奮を感じていた。私たちは品物や畑の作物をくすね、トラックの運転手から通行料を徴収し、ほかのギャングとは縄張り争いをした。仲間の多くは父親が飲んだくれだったり、義理の母親に虐待されていたり。ダム建設会社で働くことがみんなの夢だった。
ある日突然、こうした日々に終わりが訪れた。私たちの縄張りの女の子によそ者がちょっかいを出したことがきっかけで、ほかのギャングと派手な決闘になり、とうとう警察ざたになったのだ。
私は町を逃げ出し、ランチーという小さな町に流れ着いた。名前を変え、またスラムで暮らしはじめた。旅行者を待ち伏せして金品を巻き上げていた地元のボス的存在の男と仲良くなった。男は私を恐喝行為に参加させないようにしていたが、食べ物がないときは恵んでくれた。
このころ私は極左グループにも加わっていた。政治的イデオロギーに関心があったわけではない。ギャングの一員だったときと同じように、どこかに所属しているという意識を味わいたかった。
その後5年間、警察の追跡を逃れてスラムからスラムへと渡り歩く日々が続いた。新聞の販売や洗車などをして小銭を稼いだ。
残りの人生をスラムか刑務所で送っていても不思議ではなかった。私がそうならずにすんだのは、本のおかげだ。ベンガル語の読み書きは両親に教え込まれていた。
本と英語が開いた脱出路
文学は厳しい現実を忘れさせてくれる「逃げ場」だった。(ベンガル語の翻訳で)ジャック・ロンドンの小説を読めば勇敢な冒険家になれたし、ジュール・ベルヌを読めば世界を旅できた。バルザックを読み、ヘミングウェイやドストエフスキーを読んだ。
子供向けの本を借り、盗んだオックスフォードの辞書を頼りに独学で英語を勉強しはじめた。発音は、盗んだラジオでボイス・オブ・アメリカ(VOA)やBBCを聴いて練習した。なかなか上達せず、よく悔し涙を流した。
地元の英字週刊紙の編集部に、雑用係兼校正者として雇われた。月給は4ドル相当。この職場で、ニューデリーからやって来たジャーナリストと出会った。私がスラムに暮らしていて、しかも十二指腸潰瘍を患っていることを知って、この人物がニューデリーに来ないかと誘ってくれた。その翌日、私はスラムの仲間たちに別れを告げて町を後にした。
ニューデリーでは、相手をしてくれる人がいればいつも英会話の練習に励んだ。ついに小さな英字紙で無給のインターンとして採用されると、うれしくて跳び上がりそうだった。寝る時間以外は、すべて編集部で過ごした。
しばらくして、その英字紙で有給のスタッフに昇格。その後、転職を重ねて、しだいに大きな新聞社に移っていった。奨学金をもらってアメリカに滞在していたときに、ニューズウィークへの採用が決まった。25年前のことだ。
いま私は、ニューデリーの高級住宅地のささやかな賃貸マンションで暮らしている。スラムの友人のなかには、世を去った人もいるし、酒におぼれた人もいる。私とは比較にならないくらい厳しい境遇に打ち勝ってスラムという監獄を脱出した人もいなくはないが、スラム住人の大半はそこから抜け出せないまま生涯を終える。
そんな過酷な現実を描いた映画を見たいと思う人は多くない。『スラムドッグ$ミリオネア』が成功したのは、前向きで希望のあるストーリーが多くの映画ファンの心を揺さぶったからだ。
しかし、醜悪な現実を忘れてはいけない。スラムをなくそうという意思が社会に欠けていることこそ、スラムが存在し続ける大きな理由なのだということを。
[2009年3月11日号掲載]