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アジアの巨象インドが沈む
インフレとテロで政権基盤が揺らぎアジア経済の牽引役に鈍化の兆しが
インドのマンモハン・シン首相は9月5日の晩、いても立ってもいられない気持ちだっただろう。首都ニューデリーから4800キロ以上離れたオーストリアのウィーンで、彼の政治家生命を左右するような会議が開かれていたからだ。
ウィーンには、45カ国が参加する原子力供給国グループ(NSG)の代表者が集合。核拡散防止条約(NPT)に加盟していないインドに対し、核燃料や原子力技術の輸出を「例外として」許すべきかという問題をめぐって議論を戦わせていた。
これが認められれば、インドは深刻なエネルギー不足を解消できるかもしれない。アメリカとの戦略的協力関係が深まり、国際社会での立場も高まる可能性がある。
アメリカとインドは05年に原子力協力協定について基本合意していたが、NSGが「例外扱い」を認めなければ、実現が困難になる。政治家生命をかけてアメリカとの協定合意にこぎつけたシンにとっても一大事だ。
ウィーンの会議では議論が紛糾。しかしアメリカの外交努力が実り、9月6日にはインドを「例外扱い」とすることで意見が一致した。インドの新聞各紙はシンの勝利をたたえ、政権が死に体状態を脱するとの見通しを伝えた。
有権者に嫌われる理由
3カ月前にも、シン内閣は別の危機に直面していた。原子力協定の発効手続きを進めれば、閣外協力を解消すると左翼政党に脅されたのだ。シンは左翼政党との協力関係を解消したうえで、下院に内閣信任動議を提出。7月22日の採決で信任を勝ち取った。
来年5月までに行われる総選挙に向け、シンを擁する国民会議派は有利な立場に立ったようにみえる。原子力協定の前途には光が見えてきたし、経済発展もめざましく、国際社会での注目度は高い。
なのに、シン内閣が相変わらず不人気なのはなぜか。それはシンが公約を守らず、貧富の差の解消という課題でも成果をあげていないからだ。国民はインドから最大限の可能性を引き出すような大胆なビジョンを示し、それを実現させる指導者を求めている。
政治手腕に乏しいシンは、そうした期待に応えられずにいる。「タナボタ」のような形で首相になったシンは、国民から明確な信任を受けたわけではないし、国民会議派や協力関係にある他党の政治家の顔色をうかがう必要もある。
めざましい経済発展の陰で、インド国内には不満が渦巻いている。90年代前半に経済発展を促した改革には、シンも財務相として旗振り役を務めた。しかし今や改革は行き詰まり、都市と農村の貧富の差は広がる一方。インフレ率は2けたに達し、中流層の生活まで脅かしている。
好調だった経済の成長も鈍り、今年の成長率は8%を下回りそうだ。それほど悪い数字ではないが、この程度の経済成長では多くの国民を貧困から救うことはできない。
経済に暗雲が漂いはじめるなか、パキスタンとの関係改善ムードも停滞。国内ではテロが相次ぎ、分離独立派の住民をかかえるカシミールの雲行きも再び怪しくなってきた。
首相就任は偶然の産物
それでも国民会議派は、次の総選挙後も政権を維持できるかもしれない。インド人民党(BJP)が最大のライバルだが、BJPは内部対立という問題をかかえており、指導者の高齢化も進んでいる。
インドは99年から04年のBJP政権下で、急速に経済を成長させた。しかし、繁栄を享受できたのは、IT(情報技術)など一部の産業に携わる人々や少数の都市住民にほぼ限られていた。経済成長の恩恵に浴していないと感じた多くのインド人は、平等な社会の実現を重視する国民会議派を支持するようになった。
国民会議派は04年の総選挙で勝利したが、得票率はわずか27%。連立パートナーとともに政権をつくり、左翼政党の閣外協力を仰がなければならなかった。これでは、どんな首相でも思い切った政策を打ち出すのはむずかしい。
シンのもう一つの足かせは、ソニア・ガンジーの存在だ。総選挙で勝った後、国民会議派の多くの支持者は、党の総裁である彼女が首相になることを望んだ。暗殺されたラジブ・ガンジー元首相の妻だった彼女には、「ネール=ガンジー王朝」の後継者というイメージもあった。
しかし、イタリア出身のソニア・ガンジーは自ら望んで政界に身を投じたわけではない。それにBJPは、外国出身の女性が首相になることに猛反対。自分が首相に就任することで国民の間に激しい対立を生むことを恐れたガンジーは、シンに首相の座を譲った。
だが、ガンジーは党総裁の地位にはとどまった。党関係者に言わせれば、ガンジーがCEO(最高経営責任者)なら、シンは部下のCOO(最高執行責任者)のようなものだ。
シン自身でさえ「首相就任は偶然の産物」だと語った。もっとも、政権発足当初は「幸運な偶然」と期待する人もいた。なにしろシンは奇跡の経済成長の立役者だ。
かつてのインドは、当局の許認可に縛られた統制経済国家だった。起業家は育たず、外国企業の参入も遅れていた。この硬直したシステムに風穴を開けたのが、91年に財務相に就任したシンだった。
04年にシンが首相になると、国家統制色の強い金融機関や生産性の低い農業にも自由化の波が及ぶのではないかと期待する声もあった。経済は好調で金利も低く、外国からの投資が盛んだった04年は、改革を進めるには絶好のタイミングだった。
しかし、就任から4年間の成果は微々たるものだ。「シン政権下では、持続可能な成長につながるような政策はあまり実施されていない」と、コンサルティング会社ユーラシアグループ(ロンドン)のシーマ・デサイは言う。
インドの農業生産性はいまだに驚くほど低い。農業従事者は総人口の60%を占めるが、GDP(国内総生産)の伸びに対する農業の貢献度は1%程度でしかない。
銀行や生命保険など金融機関に対しては、今も政府当局が強い影響力を及ぼしている。金融部門への外資規制の緩和も遅れている。
シン本人は自由化推進派だが、閣外協力していた左翼政党が改革に反対の立場だった。シンがようやく左派と手を切った今、少しは改革を進められるかもしれない。
とはいえ総選挙を控え、有権者の支持を失うような政策を打ち出すのはむずかしいだろう。国営銀行の従業員は早くも、民営化とリストラにはストライキで対抗すると警告している。
シンはもっと早く左翼政党と手を切るべきだった。だがテクノクラート出身のシンは、左派との関係を絶って新たに政権の枠組みをつくることに及び腰だった。
閣僚の「謀反」が相次ぐ
そもそも、そうした仕事を率先して行うべきなのは国民会議派の総裁であるガンジーだ。そのガンジーは経済改革より社会福祉を重視。党の戦略立案者も、支持基盤を立て直すには社会福祉に力を入れるのが一番だと考えた。
そこでシン政権は、莫大な資金を要する農村改革に力を注いだ。立派な改革プログラムがいくつも生まれた。
だが、計画倒れに終わるプログラムも多かった。3年間で5万の農村に電力を供給する計画の目標達成率は6%。かんがい設備や飲用水の供給網の整備も遅れている。
インドでは、重い借金をかかえて自殺に追い込まれる農民も多い。そのため農民の債務を帳消しにする計画を発表したところ、喝采を浴びた。だが民間企業からの借金は対象外なので、期待どおりの成果はあがらないかもしれない。
「経済成長が所得を増やし、所得の増加が経済成長を促す好循環の確立に、こうしたプログラムが役立ったとは思えない」と、ユーラシアグループのデサイは語る。
国民会議派は社会福祉に力を入れることで、支持者の長期減少傾向に歯止めをかけることをねらったが、効果はあがっていない。
「シン政権は法律を作るだけで満足し、施行後のフォローには無関心だ」と批判するのはニューデリーの政治アナリスト、ヨゲンドラ・ヤダブだ。プログラムの実施は28の州政府にゆだねられることが多いが、国民会議派が牛耳っているのは8州にすぎない。
シンとガンジーの双頭体制でリーダーシップがあいまいになっているため、閣僚の身勝手な行動も目立つ。アルジュン・シン人的資源開発相は、シン首相の教育改革に非協力的な態度を示した。鉄鋼相や国防相も、同様な問題で批判を浴びている。
今やインドのインフレ率は2けたに達している。国民会議派が社会福祉の拡充に努めても、このインフレでは有権者も効果を実感しにくいだろう。食糧高騰は、とくに貧困層に打撃を与えている。
シン政権は、物価上昇を抑えるために断固たる措置を取るとみる人も多い。だが、中央銀行はすでに政策金利を記録的な9%まで引き上げており、打てる手だてはほとんど残っていない。
外交面でも、シンはむずかしい状況に直面している。NSGから「例外扱い」を勝ち取ったものの、来年1月のジョージ・W・ブッシュ米大統領の退任前に、米議会が原子力協定を承認するかどうかはわからない。
パキスタンとの関係もぎくしゃくしはじめた。一時は関係改善が進み、パキスタンのパルベズ・ムシャラフ大統領(当時)が、カシミールの領有権を放棄する可能性を口にしたこともあった。だがムシャラフが国内問題の処理に追われる一方、インドではイスラム過激派のテロが相次ぎ、雪解けムードはしぼんでしまった。
シン政権に残された時間は少ない。遅くとも7カ月後には総選挙が行われるはずだ。不吉なことに、国民会議派はすでに今年、4州の選挙で全敗している。新たに協力関係を築いた社会党との間にも、すでに緊張が高まっている。
シンは議会の開会を8月11日から10月に延期した。社会党の協力を必要とする期間を短くしたかったのかもしれない。開会前に米議会が原子力協定を承認することを期待している可能性もある。
いずれにせよ、改革法案を成立させる時間は減ってしまった。BJPのすきを突くため、国民会議派が前倒しで選挙を行うかもしれないとみる専門家もいる。
時期が早まろうと当初の予定どおりだろうと、今度の総選挙は国民会議派とシン首相に対する信任投票だ。負けた場合は、「偶然」を言い訳にはできない。
[2008年10月 1日号掲載]