最新記事

SARSと人類の戦争

迫りくるパンデミック

感染症の新たな脅威が 人類に襲いかかる

2009.05.15

ニューストピックス

SARSと人類の戦争

急激な勢いで世界中に広がっている新型肺炎の脅威に現代科学が立ち向かう

2009年5月15日(金)19時07分
クロディア・カルブ

非常事態 SARSの感染者を病院に搬送したトロントの救急隊員 Andrew Wallace-Reuters

 カナダのトロントは、このところ緊迫した空気に包まれている。通りを行く人々の姿は、ふだんと変わらない。週末になると家族連れはディナーに出かけ、地元の大リーグ球団ブルージェイズの試合には大勢のファンが詰めかけた。だが、誰もが浮かない顔だった。

 WHO(世界保健機関)は、トロントを重症急性呼吸器症候群(SARS)の感染地域に指定し、旅行者に渡航延期を勧告した。この勧告は4月末に解除されたが、その直後に2人の感染者が新たに見つかっている。

 美しい公園と親切な人々で知られたトロントの評判を回復しようと、メル・ラストマン市長はカナダ政府の感染防止策に賛辞を送り、WHOに激しくかみついた。「ここではっきりさせておきたい。トロントは安全だ」と、市長は記者団の前で断言した。

 だが、すでに不安は世界中に広がっていた。トロントのある女子サッカーチームは、親善試合を行うため米ペンシルベニア州に向かっていたが、試合は到着直前にキャンセル。この試合で活躍して大学進学の奨学金を得たいと思っていたケイティー・ニジオ(16)は、「最初で最後のチャンスだったのに」と肩を落とした。

 医療だけでなく政治、経済、さらには心理面でも、SARSは手ごわい敵であることがわかってきた。中国では衛生相と北京市長が更迭され、1万人以上が隔離の対象になった。

 サンフランシスコの空港では、感染を疑われた男性が旅客機から降ろされた。香港では、サザビーズが中国陶器を鑑賞するカクテルパーティーを開いたが、参加者は100人ほど。ふだんは高級ブランドを身にまとう招待客が、この日はマスクをつけていた。

 イギリスでは、春休みをアジアで過ごした寄宿学校の生徒が、隔離や10日間の自宅待機を求められた。ロサンゼルスではアジア料理店が危ないという風評が広がったため、ジョナサン・フィールディング公衆衛生局長は記者会見で中華料理を食べ、安全性をアピールした。「エイズの初期と不気味なほどよく似ている」と、フィールディングは言う。

戦いはまだ始まったばかり

 先週末時点で、感染者は6000人以上、死者は435人にのぼっている。しかも感染のメカニズムや、人によって症状の重さに違いがある理由など、SARSウイルスには不明な部分がまだ多い。

 効果的な治療法も見つかっていない。危機感を強める公衆衛生の専門家は、多少の問題には目をつぶってでも感染の拡大防止に最優先で取り組む構えだ。

 医療関係者の戦いは、さまざまな「戦線」で始まっている。医師はSARSの診断と治療、ウイルスの封じ込めに奮闘中。科学者は培養皿を使った実験を繰り返し、公衆衛生当局者は治療薬とワクチン開発の戦略を練っている。

 だがこの新たな敵との戦いでは、勝利は簡単に手に入らない。「この仕事はまだ未完成。勉強しなければならないことが山ほどある」と、米疾病対策センター(CDC)のジュリー・ガーバーディング所長は言う。

 SARSの謎を解明するための出発点は、感染者の肺を調べることだ。香港のヘンリー・リクユン・チャン医師(34)は、勤務先の病院で感染。高熱を発し、激しい咳に苦しんだ。心配して電話をかけた同僚は、苦しそうにぜいぜいあえぐチャンの声を聞いて悲鳴を上げた。

変異を繰り返すウイルスの謎

 発症から10日目に撮影した胸部X線写真には、胸にたまった水の影が写っていた。もう助からない、とチャンは思った。

 それから6週間後、チャンは体重が4~5キロ減ったものの、無事に回復した。「私は攻撃的な性格だから、必ずSARSを征服してみせると固く決意したんだ」と、チャンは言う。

 その思いは科学者たちも同じだ。カナダの研究グループは高度なテクノロジーと国際的な協力体制のおかげで、1種類のSARSウイルスのゲノム(全遺伝情報)を1週間足らずで解読。まもなく、SARSウイルスがコロナウイルスの一種であることも判明した。

 それ以来、10種類以上のSARSウイルスのゲノムが世界各地の研究施設で解読され、WHOのウェブサイトに掲載されている。

 それぞれのウイルスは、遺伝情報の設計図に当たる約3万の塩基配列が少しずつ異なっていた。DNAを遺伝子とする通常の生物と違い、RNAに遺伝情報をもつコロナウイルスには、自己複製の際に生じる遺伝情報の転写ミスをチェックする機構がない。

 そのためコロナウイルスは、複製のたびに少しずつ変異することになる。「コロナウイルスは変異するのが仕事のようなものだ」と、米バンダービルト大学医療センターのウイルス学者マーク・デニソンは言う。

 患者によって症状の程度にかなりの差があることも、ウイルスの変異で説明できるのかもしれない。SARS患者はほとんどが治癒するが、その一方で先週末のWHOの発表によれば、死にいたるケースも7%ほどある。

 97年に香港で大流行した鳥インフルエンザは、もともと水鳥の病気だったものが、ウイルスのわずかな変異により、人間に対して致死性をもつようになった。SARSの場合も、感染の過程でウイルスがさまざまに変異した結果、ウイルスの病原性の強さにもばらつきが生じているのではないかと、専門家は推測している。

 もっとも、確実なことはわかっていない。重度の症状が表れた人は、もともと免疫機能が低下していたのかもしれない。

 カメレオンのように次々と「変身」していくコロナウイルスは、感染者の正確な診断法を確立するのがとりわけむずかしい。

飛沫だけでなく便も感染経路に?

 今のところ医師は、痰を伴わない咳や高熱などの症状、感染地域への渡航歴、発症者との緊密な接触の有無、胸部X線写真などを参考に診断を下すしかない。

 それを受けて、さらに確定的な診断を下すために用いられている検査方法は、血液検査とポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法の主に2種類だ。

 しかし現在用いられている検査方法では、陰性の人が陽性と判断されたり、あるいは逆の誤りもありうると、専門家は注意を促している。

 確かに検査方法には、まだまだ改善の余地がありそうだ。米カンザス州に住むマーク・バンキャンプ(49)は、不正確な診断のせいで不愉快な思いをした。バンキャンプは3月、妻と一緒に中国南部の広州に渡航し、養子縁組した女の赤ちゃんを連れて帰った。

 帰国後、体調を崩したバンキャンプは、カンザス州のSARS患者第1号と診断された。ところがその後、病状は回復。SARSではなく重い肺炎だったのだろうと、診断は改められた。

 それでも、託児サービス業者には娘の世話を拒否された。近所のレストランに食事に行くと、たまたまその店に来ていた以前の主治医とその妻が、バンキャンプを避けて別のテーブルに移った。「SARSは恐怖心も生み出した」と、バンキャンプは言う。

 この恐怖の最大の原因は、いまだに感染経路がはっきり特定されていないことだ。くしゃみや咳によって飛沫感染することは明らかになっているが、まだ不明な点も多い。専門家の間では、排泄された便を介してウイルスが感染する可能性も指摘されている。

 謎に包まれているのは、感染経路だけではない。効果的な治療法もまだ確立できていない。

 SARSの病原体は細菌ではなくウイルスなので、抗生物質は効果がない。香港の医師は、抗ウイルス剤のリバビリンを(多くの場合ステロイド剤と併用して)投与しているが、アメリカの研究者によれば、研究室の実験ではリバビリンにSARSを抑え込む効果は確認できていないという。

 米メリーランド州の陸軍感染症研究所では、治療法の「正解」に行き当たることを期待して、既存のさまざまな薬品や開発中の新薬を手当たり次第、SARSウイルスにぶつけている。HIV(エイズウイルス)やヘルペス、インフルエンザ、肝炎などに用いられる各種の抗ウイルス剤や、抗癌剤、抗炎症剤、ぜんそく薬など、1000以上の薬品が試されている。

もはや根絶するのは不可能?

 これまでのところ期待がもてそうにみえるのは、一部のインターフェロン剤だ(ただし本格的な実験はこれから)。しかしこの薬は、抑鬱症状や筋肉痛など、重い副作用のおそれもある。

 あるいは、他の病気の治療に用いられている薬をSARSに転用するのではなく、まったく新しい薬を開発する必要があるのかもしれない。

 しかし、わからないことがあまりに多い。新たな謎も次々と生まれている。先週も香港の研究チームが、ぞっとするような可能性を指摘した。すでに症状が回復した人も感染源になりうるかもしれないというのだ。

 こうして謎は残り、不安も消えない。北京のある大学生は、先週の授業が休講になると、不安のあまり学生寮にこもって一歩も外に出なかった。「いつになったら終わるのか」と、この学生は言う。

 「終わり」は来ないのかもしれない。SARSを完全に根絶することはもはや不可能という声も、専門家の間で聞こえはじめている。だが次に新しい感染症が流行したときには、SARSの教訓が生きるにちがいない。

[2003年5月14日号掲載]

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ローマ教皇の葬儀、20万人が最後の別れ トランプ氏

ビジネス

豊田織機が非上場化を検討、トヨタやグループ企業が出

ビジネス

日産、武漢工場の生産25年度中にも終了 中国事業の

ビジネス

豊田織機の非公開化報道、トヨタ「一部出資含め様々な
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 10
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中