コラム

新型肺炎:1人の医師の死が引き起こす中国政治の地殻変動

2020年02月10日(月)13時10分

理由の1つは、今回の動きがその始まりから、近年にない迅速さと勢いを見せたことにある。李医師死去の翌日からネットが沸騰しただけでなく、武漢と全国の権威と地位のある知識人たちが実名をきちんと出して抗議し、言論の自由の保障を堂々と求めた。そして、ほんのわずかではあるが財界人や民間の非営利組織、共産党体制内の人々からも同調する声が上がった。言論統制をとりわけ厳しくしている習近平政権で、政治的な要求を求める動きがこれほどの勢いで展開し始めたのはまさに未曾有のことだ。

そして、言論の自由を求める動きが出足から勢いをつけた理由はやはり、今この時ほど、「言論の自由が大事だ」との声が国民の共感を得たタイミングはない、ということである。

31年前の天安門事件でも「言論の自由の保障」は民主化運動の中心テーマの一つだった。天安門事件後も、多くの知識人がそれを求め続けてきた。

しかし、おそらく中国大半の国民にとって、特に経済成長の中で多少たりともの実利を得た富裕層や中産階級にとって、「言論の自由」は結局あってもなくてもどうでも良いような「高嶺の花」となっていた。大多数の一般国民からすれば、言論の自由を求める言説や政治行為は、要するに一部の物好きな人々のものであって、自分たちの生活とは何の関係もない。経済繁栄の中で、大半の国民は別に「言論の自由」はなくても、自分たちが自由に経済活動を行って富と幸福を手に入れることができればそれで十分と考えていた。

これまでは一部の知識人が唱える「言論の自由」は確かに、現実から遊離した机上の空論として国民の共感をなかなか得ることができなかった。しかし今回のことで様子は一変した。

というのも、まさに政府による情報隠ぺいと言論統制によって、新型ウイルスは武漢市民や一般国民がまったく知らないところで拡散・蔓延したからだ。そして武漢市民や一般国民がやっと実態を知らされた時には全てが遅すぎた。新型ウイルスはすでに武漢と全国で猛威を振るい、多くの人々が苦しみ、命までを失った。そして今、全国の多くの地方で人々が移動の自由を失い、普通の経済活動も市民生活もできなくなっているのである。

李医師が「イエス・キリスト」になる日

多少たりとも思考力のある中国国民はやっと大事なことに気がついたはずだ。「言論の自由」は決して、自分たちの生活とは無関係でないこと。言論の自由が圧殺される状況の中では、とんでもない災難が知らないうちに自分たちの上に降り注いでくることもありうる、ということである。つまり「言論の自由」を自分たちの生活とは関係ないものとして無視した結果、自分たちの生活が脅かされるだけでなく、自分たちの命さえ危険にさらされることになったのだ。

おそらくこの「気づき」こそ、李医師の死に対してネットで嵐が吹き荒れる背景にあるものであり、言論の自由を求める運動が大変な勢いで始まった最大の理由であろう。多くの中国国民は確実に、「言論の自由」は自分自身にとっての切実な問題であることを悟り始めている。

一部の教授たちが李医師死去の日を「国家言論自由の日」として制定するよう提言していることからもわかるように、死去からわずか数日間で彼は図らずしも中国における言論の自由のシンボルとなり、言論の自由を求める政治運動の旗印になった。「十字架のイエス・キリスト」を得てからこそキリスト教が大きな勢いを得たと同じように、死去した英雄の李医師を旗印にすることによって、言論の自由を求める中国の国民運動は今後、持続し広がっていくだろう。政府の情報隠ぺいと統制が未曾有の大惨禍をもたらしたことへの国民的反省を基に、言論の自由を求める運動は今後、一種の政治運動として中国の中で定着して社会と政治構造を大きく変えていく力になりうる。

もちろん、運動が今後どう展開していくかは、今の疫病拡大がどれほどの被害をもたらし、どのような形で収束するかとも関連してくる。中国共産党政権も当然、手をこまねいて運動の拡大を見逃すことはしない。今後はいろいろな紆余曲折もあるとは思うが、1つだけ断言できるのは、中国はもはや、国民が政権の厳しい言論統制にただひたすらひれ伏して屈従する、新型ウイルス発生前の状態に戻らない、ということだ。新しい時代への地殻変動が今、起きようとしているのである。

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プロフィール

石平

(せき・へい)
評論家。1962年、中国・四川省生まれ。北京大学哲学科卒。88年に留学のため来日後、天安門事件が発生。神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。07年末に日本国籍取得。『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)で第23回山本七平賞受賞。主に中国政治・経済や日本外交について論じている。

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