コラム

【大江千里コラム】だから僕はポップスを手放した

2020年05月29日(金)16時55分

1996年のアルバムの撮影で訪れたモロッコ SENRI OE

<ポップスを作るのに必要なのは、心地よい数分間に人生や恋のさわりを咀嚼して聴かせるテクニックだ。これを本能でできる年齢にはリミットがある。大江氏がポップスを手放して、ニューヨークに渡りジャズと手をつなぐまで>

僕がなぜ、ポップスからジャズに転身してニューヨークに渡ったのかという話をまだ書いていなかった。

ポップスは、ジャズもフォークもロックもクラシックも全てを材料にし昇華できる、音楽の中じゃ最も間口が広くて深い、その分、難しいジャンルだ。そこでは時代をあらゆるアングルから読む目が問われる。読む目とは「何を歌わないべきか」であり、ポップスという心地よい数分の中に人生や恋のさわりを咀嚼して聴かせるテクニックが必要になる。

この「歌わないべき」を本能でできる年齢にはリミットがある。10代のころ大阪の内陸に育った僕は海を見た経験がないから、想像しては憧れる海の曲がいっぱい描けた。団地のベランダに干されたオシメを見ながら、砂に足を取られ転がる二人の夏を描く。「塩屋」(1987年)という曲は、神戸の塩屋に行ったことがないまま、海に近い寂れたガソリンスタンドで朝を迎える二人を想像して作った。

これがやがて人生における経験値を積み、そこに重なる言葉とメロディーが深みを増し始めるとポップスは危険地帯に入る。スーパーで聞く有線放送から飛び込んでくるような明快な予感に満ちた「キラキラ」が、実生活で経験した「生々しさ」へすり替わっていく。おぼろげだった憧憬、そこに必死に手を伸ばそうとしていた自分から、もっとはっきりとしたリアルな画角に目線が変わる。

聴き手の憧れ目線から「ハワイ」や「ニューヨーク」を描いていたのが、実際にその場所を「経験」することにより逆に鈍る筆致。そうした時に攪拌(かくはん)が起こる。若い頃は経験がない分いい意味で「無責任に」冒険ができるが、一旦経験を積み始めると、目の前で起きるリアルと憧れのイメージとがそぐわなくなっていく。

瞬間にきらめく一期一会はジャズもポップスも同じだが、ポップスに特有のキラキラした短い物語とジャズの持つ喜怒哀楽が混じり合ったどうしようもない物語は決定的に暖簾(のれん)を別にする世界だ。ポップスのキラキラの純度はティーンエージから飛距離を持つほどに鮮度が薄れていく。

なぜポップスじゃ駄目だったのかは、「初めて」や「未経験」を手放していくなかで、「言いたくても言えない何者でもない自分の現在進行形のラブレター」を描く必要が僕自身の人生になくなったからだと思う。

プロフィール

大江千里

ジャズピアニスト。1960年生まれ。1983年にシンガーソングライターとしてデビュー後、2007年末までに18枚のオリジナルアルバムを発表。2008年、愛犬と共に渡米、ニューヨークの音楽大学ニュースクールに留学。2012年、卒業と同時にPND レコーズを設立、6枚のオリジナルジャズアルパムを発表。世界各地でライブ活動を繰り広げている。最新作はトリオ編成の『Hmmm』。2019年9月、Sony Music Masterworksと契約する。著書に『マンハッタンに陽はまた昇る――60歳から始まる青春グラフィティ』(KADOKAWA)ほか。 ニューヨーク・ブルックリン在住。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

マスク氏のスペースX、xAIを買収 宇宙・AI事業

ワールド

ロシア・ウクライナ協議順調とトランプ氏、近く「良い

ワールド

米、イランとの協議継続中=トランプ氏

ビジネス

NY外為市場=ドル上昇、金価格下落で安全資産買い 
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプの帝国
特集:トランプの帝国
2026年2月10日号(2/ 3発売)

南北アメリカの完全支配を狙うトランプの戦略は中国を利し、世界の経済勢力図を完全に塗り替える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「出禁」も覚悟? ディズニーランドで緊急停止した乗り物から「勝手に退出」する客の映像にSNS批判殺到
  • 2
    高市首相の発言は正しかった...「対中圧力」と「揺れるアメリカ」に向き合う「日本の戦略」とは?
  • 3
    日本への威圧を強める中国...「レアアース依存」から脱却する道筋
  • 4
    中国政府に転んだ「反逆のアーティスト」艾未未の正体
  • 5
    関節が弱ると人生も鈍る...健康長寿は「自重筋トレ」…
  • 6
    エプスタイン文書追加公開...ラトニック商務長官、ケ…
  • 7
    世界初、太陽光だけで走る完全自己充電バイク...イタ…
  • 8
    トランプ不信から中国に接近した欧州外交の誤算
  • 9
    【銘柄】「古河機械金属」の株価が上昇中...中国のレ…
  • 10
    共和党の牙城が崩れた? テキサス州で民主党が数十…
  • 1
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 2
    中国で大規模な金鉱脈の発見が相次ぐ...埋蔵量は世界でも過去最大規模
  • 3
    180万トンの「リチウムごみ」を資源に...EV電池の「副産物」で建設業界のあの問題を解決
  • 4
    日本への威圧を強める中国...「レアアース依存」から…
  • 5
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」…
  • 6
    一人っ子政策後も止まらない人口減少...中国少子化は…
  • 7
    スペースXの宇宙飛行士の帰還が健康問題で前倒しに..…
  • 8
    ロシア軍の前線で「弾よけ」にされるアフリカ人...兵…
  • 9
    町長を「バズーカで攻撃」フィリピンで暗殺未遂、大…
  • 10
    「出禁」も覚悟? ディズニーランドで緊急停止した乗…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?【2025年の話題クイズ5選】
  • 2
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 3
    中国製防空レーダーは米軍のベネズエラ攻撃に屈した──台湾高官が分析
  • 4
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」…
  • 5
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?【202…
  • 6
    海上自衛隊が水中無人機(UUV)を導入 中国の海軍拡…
  • 7
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 8
    防衛省が「新SSM」の映像を公開、ノルウェー・コング…
  • 9
    中国で大規模な金鉱脈の発見が相次ぐ...埋蔵量は世界…
  • 10
    【クイズ】韓国を抜いて1位に...世界で最も「出生率…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story