コラム

数十年ぶりに正常化しつつある日本の雇用

2018年08月31日(金)19時30分

雇用安定の責任は企業にではなく「日銀も含む政府」にあり

この1990年代後半以降の長期デフレ経済下に生じた日本の雇用環境悪化は、単に日本経済のみならず、日本社会そのものを大きく不安定化させた。それは、その間に生じた雇用の急減とその質の悪化から最も深刻な影響を受けたのが、新卒の若年層だったからである。

長期デフレを背景に正規雇用から締め出された層の多くは、失業を避けようと思えば、ワーキングプアと呼ばれるような低賃金の非正規雇用に甘んじるしかなかった。それはその後、彼らの多くを、子どもを生み育てるどころか結婚すらままならない経済的境遇に追いやり、日本の少子化をより一層深刻化させることとなった。

いわゆる就職超氷河期に新卒として労働市場に参入した彼らの世代は、その後、ロスト・ジェネレーション略してロスジェネと呼ばれるようになった。1990年代後半に新卒であったその最初のロスジェネ層は、現在は既に40代前半に達している。NHKのドキュメンタリー番組『クローズアップ現代』の特集「アラフォー・クライシス」(2017年12月14日放送)「アラフォー・クライシスII」(2018年6月4日放送)では、景気が回復した現在でさえきわめて先行きの暗い厳しい生活を強いられているその世代の現実が紹介され、大きな話題となった。

幸いにも、この5年半のアベノミクスによる景気回復によって、少なくとも現在の新卒若年層に関しては、かつてのような就職難はまったく過去のものとなった。しかしながら、本来ならば今まさに日本経済を支える主軸となるはずであった現在の壮年層は、20年に及ぶ長期デフレによって経済的に虐待され続けてきたにとどまらず、現在でもきわめて鬱屈した職業生活を余儀なくされているのである。その責任はいったい誰にあるのであろうか。

その問題に関しては、一般には企業に責任を求める声が多い。というのは、新卒若年層を正規雇用から締め出し、低賃金の非正規雇用に押し留め続けた主体は、企業以外には見出せないからである。人々の経済生活は何よりもその雇用に依存するが、その雇用を決めるのは結局のところ企業である。人々はしたがって、企業が雇用を切り詰め、賃金を引き下げれば、それを当然のように批判するわけである。

しかし、こうした一見すると「倫理的」な批判は、単に企業というものの本質を見誤っているというだけではなく、その責任を問われるべき真の主体を見失わせてしまうという点で、大きな問題を孕んでいる。

いうまでもないことであるが、資本主義経済における企業とは、あくまでも可能な限りの大きな収益の獲得を目的とする存在であり、それ以上でも以下でもない。企業は、顧客や従業員に対して慈善活動を行っているわけではない。雇用は、企業にとっての目的ではなく、収益の獲得のための手段にすぎない。賃金は、労働者にとっては生活の糧であるが、企業にとっては収益を圧迫するコストにすぎない。企業は実際、それが可能でありさえすれば常に、雇用を切り詰め賃金を引き下げることで、そのコストをより小さくし、収益を大きくしようとするのである。

カール・マルクスがかつて論じたように、資本家がそれを行うことは、資本主義の不変の本質である。したがって、それを否定するというのであれば、マルクス自身がそうしたように、資本主義そのものを否定するしかない。

マルクスは、このような悪しき本質を持つ資本主義経済は、労働者の窮乏化により必ず崩壊すると予言した。しかし、結果としてはその予言は外れ、人々の経済状況はおおむね経済発展とともに改善し続けた。それは、「政府と中央銀行が行うマクロ経済政策すなわち金融および財政政策を通じて十分な雇用を確保し維持する」というケインズ主義の政策思想が世界各国に浸透し、それがマルクス的な窮乏化の発現阻止に大いに役立ったからである。

ところが、1990年代後半からの20年に及ぶ日本の長期デフレ不況においては、先進諸国の多くが過去のものと考えていた、原始資本主義的な労働者の窮乏化が生じた。それは結局のところ、日本のマクロ経済政策が、十分な雇用を確保し維持するという、その本来の役割を果たさなかったためである。その責任は当然ながら、企業にではなく、金融政策と財政政策を担当する日銀と政府にある。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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