コラム

数十年ぶりに正常化しつつある日本の雇用

2018年08月31日(金)19時30分

ようやく顕在化し始めた資本主義本来の生産拡大能力

マルクスは、資本主義は最終的には窮乏化した労働者たちによる革命によって崩壊すると考えていたが、他方ではそれが人々の物質的厚生を大きく改善させる力を持つことも認識していた。

資本主義企業は、競争市場で生き残り、かつ十分な収益を確保し続けるためには、生産効率を絶えず改善し、より高い付加価値を持つ新製品を生み出し続けなければならない。企業が労働者を解雇し、より低賃金の労働者に置き換えるというのも、企業が担うこの「競争下での技術改善」の一側面に他ならない。労働生産性の上昇は、企業のそうした試みの結果として実現される。その意味で、マルクスが把握していたように、資本主義経済は本来、生産力を自律的に拡大させる性質を備えているのである。

この企業による生産性改善とは、社会全体で生産可能な財貨サービスの増加を意味する。したがって、不況によって失業すなわち労働力の遊休が生じていない限り、人々の所得によって人々が得る財貨サービスすなわち実質賃金は上昇する。しかし、不況によって労働力の遊休が生じる場合には、生産性が上昇しても実質賃金は下落する可能性がある。前掲図「賃金と生産性の国際比較」が示すように、それがまさに日本の長期デフレ不況下で生じていたことであった。

本稿冒頭で述べたように、日本では最近になってようやく実質賃金にある程度の伸びが見られるようになった。これは、失業率や有効求人倍率の現状での数字が示しているように、日本のマクロ経済政策が「十分な雇用を確保し維持する」というその本来の機能をようやく果たし始めたことを意味する。それは、アベノミクス第一の矢=大胆な金融政策と第二の矢=機動的な財政政策が、消費税増税という逆噴射的な政策を乗り越えた上で日本経済にもたらした、その最も大きな成果といえる。

長期デフレ不況下の日本では、労働生産性の上昇は、おおむね雇用の減少をもたらすにすぎなかった。それは、不十分なマクロ経済政策のために、経済全体での需要不足が続いたためである。しかし、アベノミクスによって需要不足がほぼ解消されたことで、社会全体の生産可能性の拡大が、実質賃金の増加という形で、人々の厚生にそのまま結びつき始めたのである。

これから本格化する所得と生産性の好循環

この「実質賃金増と生産性上昇の好循環」は、これからさらに顕在化していくことが期待できる。上掲のブルームバーグ2018年7月9日付記事「15年ぶり賃金上昇、人手不足続く」に掲載されている「生産性」に関するチャートを見ると、製造業、サービス産業とも、最近になって生産性が上昇しつつあることが見て取れる。この傾向は、今後はより一層明確になってくるであろう。

まず、実質賃金の上昇はそれ自体、経済の低生産性部門を縮小させ、労働力を高生産性部門にシフトさせる要因となる。低所得の国々でよく見られるように、労働力が余っていて賃金が安ければ、それは低付加価値の対人サービスのような形で「より無駄」に使われ始める。しかし、そのような現象は高所得国ではそれほどみられない。というのは、そのような労働力の浪費は、高所得国になればなるほど高くつくからである。

最近の日本経済でよく話題になる「人手不足倒産」も、その背後にある要因は同じである。人々の賃金が上昇しつつある時に、その上昇に耐えられない企業とは、より高い賃金に見合うだけの付加価値を生み出すことができない「低生産性企業」に他ならない。社会全体の生産性は、そのような限界的企業が存続することなく淘汰され、労働力がそこから解放されることによってより高められていく。

実質賃金の増加はさらに、企業の省力化投資を通じて、より一層の生産性上昇に結びつく。例えば製造業では、人手不足が生じて労働者の賃金が上昇すれば、経営者はコストが高くなった労働者のかわりにロボットの導入を考え始めるであろう。これを経済学的にいえば、資本コストに対する実質賃金の相対的な上昇によってもたらされた「労働から資本への代替」である。それによって、労働者一人当たりの資本装備率は上昇し、労働生産性はさらに上昇する。

日本政策投資銀行の設備投資計画調査によれば、2018年度の全産業の国内投資は17年度の実績から21.6%多い19兆7468億円となり、伸び率としては38年ぶりの高さとなった(朝日新聞2018年8月6日『今年度の設備投資計画、伸び率が80年度以来の高水準』)。その少なからぬ部分が、最近の人手不足と賃金上昇を背景とした省力化投資と考えられる。

このようにして生じる「実質賃金増加と生産性上昇の好循環」は、日本経済にとっては決して珍しいものではない。むしろ、生産性の低い企業が淘汰されて絶えず新しい企業に置き換えられていき、その新興企業による旺盛な設備投資によって高い生産性上昇が実現されるというのが、ジャパン・アズ・ナンバーワンとまで呼び讃えられていた、かつての日本経済の特質であった。そうした中で、人々の所得は、欧米と比較したきわめて低い失業率に支えられて、名目と実質ともに上昇し続けた。現在の日本経済は、そのかつての「常態」に、数十年ぶりに復帰しつつあるといえる。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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