コラム

ノーベル平和賞は中国を変えない

2010年10月12日(火)18時17分

 アメリカの原爆開発に参加した女性物理学者ジョアン・ヒントンの娘で、映画監督のカーマ・ヒントンが撮った『天安門』というドキュメンタリー映画がある。48年に母が移り住んだ北京で生まれ、21歳まで中国で育ったカーマはパール・バック同様「肌の白い中国人」と言われるほど中国語と中国文化に精通した人物だ。その彼女が撮影した『天安門』は、89年の天安門事件に関わった民主化運動関係者への圧倒的なインタビューで構成された秀作だが、今年のノーベル平和賞を受賞した劉暁波もその中で事件について証言している。

 手元にDVDがないので正確な言葉は書き起こせないが、劉暁波は「(北京師範大学の教師として教え子だった)ウアルカイシたちが死んでいくのをだまって見過ごすことができず、天安門に最後まで残った」というようなことを証言していたと思う。実際、民主化デモが始まると、派遣先の米コロンビア大学から帰国して運動に加わり、学生に代わってハンストを決行。6月4日未明に戒厳部隊が進入する最後の瞬間まで天安門広場に残り、学生や市民を無事に逃がしたその行動が証言を裏付けている。

 先日来日したノーベル文学賞受賞者の高行健は記者会見で「普遍的な価値を持つ文学作品はイデオロギーや国境や文化をも超越する」と語った。天安門事件後、滞在していたフランスに亡命し既に同国籍を取得している高行健だが、発展・変容した母国の中国や天安門事件についてはほとんど何も語らなかった。

 事件後、民主化運動に加わった多くの学生が海外に逃げる中、劉老師(あえてこう呼びたい)はそれとはまったく逆のコースをたどり、あえて苦境の中に身を置き続けて来た。その姿は南アフリカのネルソン・マンデラと重なる。マンデラは28年間あえて国内の刑務所に収監される道を選び、その姿が世界を動かして鎖国状態に追い込まれた南アフリカはアパルトヘイトを撤回せざるを得なくなった。

 世界が劉老師を讃えるのが遅すぎたぐらいだ。ただ最もインパクトがあるとはいえ、ノーベル賞を与えるだけで中国という難問が解決するとは思えない。南アや東欧の民主化をそのまま中国に当てはめて「崩壊」を待つのは、あまりに単純だ。

 天安門事件後の経済制裁にも中国は音をあげず、逆にガマンしきれずお付き合いを再開したがったのは西側世界のほうだった。世界最大の人口がいずれもつだろう生産力と購買力への期待ゆえだが、そのポテンシャルがほぼ完全に開放されている現在、ノーベル平和賞だけで中国を封じ込めることは不可能だろう。派手な武力鎮圧こそしないが、今の中国は89年当時よりずっとやっかいな存在になっている。

 北京在住日本人ライターである田中奈美さんが最近、『中国で儲ける』(新潮社刊)という本を書いた。中国市場開拓に挑んだ日本人の生々しい体験談がたくさん載っているのだが、その中で北京でブライダル会社を設立した日本人男性、佐藤理さんが興味深い中国観を提示している。

 日本のようなきめ細かい結婚式サービスのない中国では、日本レベルの式を提供すればすぐヒットする――と思いがちだ。しかし決してそうではなく、最初中国人にとって「10歩先」のものを提供していた佐藤さんの業績は3、4カ月で成約1件という厳しいものだった。よいものと信じて提供し続ければいつか理解してもらえる、というものではない。佐藤さんは言う。


「中国人が見たことない!というものではなく、中国人スタッフから、いいですねと反応が返ってくるような、半歩先くらいのものを提供してゆくようにしました」

 劉老師のノーベル平和賞はいわば中国にとって「10歩先」とは行かないまでも、「5歩先」にあたるものだ。中国自身が納得できる「半歩先」のものでない限り、彼らの「和平演変(平和的手段による体制崩壊)」パラノイアがますますひどくなるだけだろう。劉老師の留守宅前に陣取った公安関係者が外国メディアに中指を突き立てるひどい写真がネットに流れているが、この写真が今の中国政府の心象風景をよく表している。

 封じ込めるには今の中国は巨大になりすぎている。南アやソ連、旧東欧で成功したアプローチをそのまま当てはめることはできない。ノーベル賞で横っ面をひっぱたくことは、その瞬間こそ爽快だが、かえって逆効果なのではないか。

――編集部・長岡義博

プロフィール

ニューズウィーク日本版編集部

ニューズウィーク日本版は1986年に創刊。世界情勢からビジネス、カルチャーまで、日本メディアにはないワールドワイドな視点でニュースを読み解きます。編集部ブログでは編集部員の声をお届けします。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

EXCLUSIVE-中国、欧州EV関税支持国への投

ビジネス

中国10月製造業PMI、6カ月ぶりに50上回る 刺

ビジネス

再送-中国BYD、第3四半期は増収増益 売上高はテ

ビジネス

商船三井、通期の純利益予想を上方修正 営業益は小幅
MAGAZINE
特集:米大統領選と日本経済
特集:米大統領選と日本経済
2024年11月 5日/2024年11月12日号(10/29発売)

トランプ vs ハリスの結果次第で日本の金利・為替・景気はここまで変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    モスクワで高層ビルより高い「糞水(ふんすい)」噴出! 屈辱動画がウクライナで拡散中
  • 2
    幻のドレス再び? 「青と黒」「白と金」論争に終止符を打つ「本当の色」とは
  • 3
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大きな身体を「丸呑み」する衝撃シーンの撮影に成功
  • 4
    世界がいよいよ「中国を見捨てる」?...デフレ習近平…
  • 5
    北朝鮮軍とロシア軍「悪夢のコラボ」の本当の目的は…
  • 6
    米供与戦車が「ロシア領内」で躍動...森に潜む敵に容…
  • 7
    娘は薬半錠で中毒死、パートナーは拳銃自殺──「フェ…
  • 8
    カミラ王妃はなぜ、いきなり泣き出したのか?...「笑…
  • 9
    キャンピングカーに住んで半年「月40万円の節約に」…
  • 10
    衆院選敗北、石破政権の「弱体化」が日本経済にとっ…
  • 1
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大きな身体を「丸呑み」する衝撃シーンの撮影に成功
  • 2
    モスクワで高層ビルより高い「糞水(ふんすい)」噴出! 屈辱動画がウクライナで拡散中
  • 3
    キャンピングカーに住んで半年「月40万円の節約に」全長10メートルの生活の魅力を語る
  • 4
    2027年で製造「禁止」に...蛍光灯がなくなったら一体…
  • 5
    【クイズ】次のうち、和製英語ではないものはどれ?…
  • 6
    渡り鳥の渡り、実は無駄...? 長年の定説覆す新研究
  • 7
    北朝鮮を頼って韓国を怒らせたプーチンの大誤算
  • 8
    「決して真似しないで」...マッターホルン山頂「細す…
  • 9
    世界がいよいよ「中国を見捨てる」?...デフレ習近平…
  • 10
    【衝撃映像】イスラエル軍のミサイルが着弾する瞬間…
  • 1
    ベッツが語る大谷翔平の素顔「ショウは普通の男」「自由がないのは気の毒」「野球は超人的」
  • 2
    「地球が作り得る最大のハリケーン」が間もなくフロリダ上陸、「避難しなければ死ぬ」レベル
  • 3
    秋の夜長に...「紫金山・アトラス彗星」が8万年ぶりに大接近、肉眼でも観測可能
  • 4
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大き…
  • 5
    死亡リスクはロシア民族兵の4倍...ロシア軍に参加の…
  • 6
    大破した車の写真も...FPVドローンから逃げるロシア…
  • 7
    ウクライナに供与したF16がまた墜落?活躍する姿はど…
  • 8
    モスクワで高層ビルより高い「糞水(ふんすい)」噴…
  • 9
    韓国著作権団体、ノーベル賞受賞の韓江に教科書掲載料…
  • 10
    エジプト「叫ぶ女性ミイラ」の謎解明...最新技術が明…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story