エジプトでもシリアでも、旧強権体制勢力が巻き返し
「アラブの春」の第3段階は、2013年7月のエジプト軍のクーデターなど、旧強権体制勢力の巻き返しの時期である。軍は若者たちの「反ムルシ」デモに乗じて、ムルシ大統領を排除した。エジプト軍のクーデターを支援したのはサウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)、クウェートなどの湾岸産油諸国だった。エジプトでは軍出身のシーシ大統領が率いる現政権が成立し、同胞団も若者組織も弾圧され、ムバラク時代以上の言論弾圧と強権体制となった。
【参考記事】エジプトの人権侵害を問わない日本のメディア
一方、シリアの第3段階は2013年春に危機的状況だったアサド政権の軍事的な巻き返しである。友好国のイランが軍事的支援に入り、イラン革命防衛隊の指令下にあるレバノンのシーア派武装組織ヒズボラの地上部隊がシリアに応援に入り、政権軍の反転攻勢が始まった。
イスラム国(IS)の出現は「アラブの春」の終焉ではない
「アラブの春」の第4段階は、同胞団の退潮と入れ替わるように起こった、2014年6月の「イスラム国(IS)」登場である。イラクからシリアにまたがるISに対して、同年9月には米国が主導する有志連合による空爆が始まった。15年11月にはパリ同時多発テロなど「イスラム国」が犯行声明を出す深刻なテロが起こった。この年は、シリア難民を中心に100万人の難民がトルコからエーゲ海をわたって欧州に密航する動きが起こった。15年はシリア内戦が絡む戦闘も、テロも、難民流出も、すべての面で最悪の年だった。
エジプトやチュニジアで始まった「アラブの春」のスローガンは「自由と公正」だった。カイロでタハリール広場を埋めた若者たちは「アダーラ(公正)」を叫んだ。長期の強権体制の下で、権力とのコネがなければ、就職もビジネスもできないという「腐敗と不公正」の打破を求める声だった。欧米や日本はアラブの若者たちが、西洋的な自由や民主主義を求めていると考えたが、それは自分たちの思いを投影しているだけで、全くの錯覚だった。
かつて欧米で「公正」を求める政治運動だった社会主義は「アラブの春」の20年前に終わっていた。アラブ世界の若者たちはグローバル化と結びついた「格差」に不満を強めたが、それは単に経済的な格差ではなかった。「権力と結びついた格差」であり、若者たちのデモは「イスクト・ニザーム(体制打倒)」を叫び革命的な色彩を持った。
「アラブの春」を主導した若者たちは当初、組織も、明確な思想も、政治的目標もなかった。ただし、若者たちには「反欧米、反イスラエル」の主張が強かった。それは、今世紀に入って起こった米国のイラク戦争やイスラエルによって繰り返されるパレスチナへの軍事攻勢に対する反発だった。さらに民主主義を欧米的な価値観と考え、革命後の選挙にも積極的に参加しようとはしなかった。
「アラブの春」で若者たちが求めた「公正」は、次第にイスラム的な色彩を強めた。<反強権、反欧米・反イスラエル、反民主主義、反ムスリム同胞団>という流れの中で、若者たちに広がったのはイスラム厳格派の「サラフィー主義」である。サラフィー主義といっても平和的な運動が主流だった。そのなかに、ジハード(聖戦)によってイスラムを実現しようとするアルカイダやISのような戦闘的な「サラフィー・ジハーディ(聖戦主義的サラフィー主義) 」がいる。
エジプトでもシリアでも、旧体制勢力が軍事力に訴えて、「アラブの春」の危機を抑え込みにかかった。選挙を通しての「公正」を目指したムスリム同胞団は排除された。その後、サラフィー主義に傾倒した若者たちが軍事化、戦闘化し、ISに参入する流れが起こった。2006年にイラクで生まれた「イラク・イスラム国」はシリア内戦に参入した後、「アラブの春」の若者たちのエネルギーを吸収して、肥大化したのである。
【参考記事】イスラム国は「アラブの春」の続きである【アラブの春5周年(下)】