岸 専門分野は異なりますが、政治学者でいらっしゃるお三方はそれぞれ、「五百旗頭政治学」をどのようにご覧になっていたのでしょうか。
蒲島 80年代、私が最初に発表した外交関係の論文は、アメリカ議会の投票行動を計量的に分析し、そこから日米摩擦や日米外交を論じたもので、まず『中央公論』に掲載されました。そして、初めての学会発表が、宮崎で開かれた国際政治学会で、その論文についての発表でした。
五百旗頭さんは座長かコメンテーターだったと思います。計量政治学というのは当時非常に珍しくて、「若い男がロジット分析みたいな変わったもので外交を論じる」と言うので、一言言いたいという大御所たちが大勢参加していました。実際たくさんのコメントが出ましたが、私も臆せずに答えて発表を無事に終えました。
五百旗頭先生は私の研究の良き理解者でした。許容範囲がとても広くて、自分の限界ということで排除をしたりしない。それが五百旗頭政治学の良いところだと思いますね。「無事に終わってよかったね」と言ってくれました。
御厨 彼は毎日新聞の書評委員を長く務めましたが、書き手の描写や歴史観の特徴をスーッと持ってきて、それをそのまま書評に仕上げていくのがすごく上手でした。
書評も彼のそういう姿勢に裏付けられていて、仮に欠陥を指摘し批判を若干していても、全体としては肯定するという非常に良い書評なので、彼に書評された人は嫌な気持ちにならない。僕自身も2、3回評してもらって、「ああ、こうやって若い人を褒めて励ましてくれるんだな」という印象を受けました。
ただ、学会の話ではいいことばかりじゃなくて、あれは政治学会だったか、いつまで経っても学会冒頭の全体会に五百旗頭先生が姿を見せないから確認したら、まだ道のりの途中だという。
「五百旗頭さんが話しそうなことを念頭に置いて前座を務めろ」ということで僕にお鉢が回ってきた。苦心惨憺して時間を稼いでいたら、やっと登場した五百旗頭さんは悪びれるどころか、「ああ、ようやく着いた」とか言っている(笑)。皆も「仕方がないな」と。あの人の明るさは全体を包み込むようなところがありましたね。
國分 「五百旗頭先生の学問」と言われて僕の頭に浮かぶことの1つは、戦後民主主義に対する絶対的な賛美と、その対極にある戦前への強烈な嫌悪です。それは学問だけでなく生活態度や歴史観にも表れていたと思います。
もう1つは、日米同盟を基準とするということ。基本はやっぱりアメリカなんです。そして、「中国のことは國分さんから教えてもらいたい」と言うけれど、僕が中国論で厳しいことを言っても五百旗頭先生はいつも「中国とも一定の対話を持ちたい」と、あくまでも「日米同盟プラス日中協商」の主張でした。