コラム

他の動物のミルクを飲むヒトの特殊性と、大人が牛乳でお腹を壊す理由

2022年08月09日(火)11時25分

さらに同グループは、先史時代のユーラシア人(ヨーロッパとアジアの人々)計1786人のDNAデータを用いて、ラクターゼ活性持続症に関する遺伝子変異の発現頻度を調べました。ラクターゼ活性持続症は、紀元前4700~4600年頃に初めて現れました。けれど、初めて検出されてから約4千年後の紀元前1000年頃までは、一般的ではなかったことも分かりました。

先史時代のヨーロッパでは、大部分の人々が乳糖不耐症であった頃でも動物のミルクが広く使用されていたこと、ラクターゼ活性持続症が出現してから4千年もの間、広まりを見せなかったことから、研究グループはミルクの消費と乳糖耐性を持つ人の増加には強い関連は見られないと考えました。そこで、紀元前1000年頃に乳糖耐性が急速に広まり始めた原因について「人類に危機的な状況が起きたから」という大胆な仮説を立てました。

食物が十分にある状況ならば、乳糖を分解できない人は無理をしてまで牛乳をたくさん飲む必要はありません。けれど、農作物の不作の状態が続く飢饉になれば、人々は大量のミルクを飲んで栄養を取る必要があります。乳糖を分解してエネルギーを得る能力がない人は淘汰されるでしょう。

また、下痢を伴う感染症が流行すると、人々は脱水症状を起こしやすくなります。乳糖不耐性で下痢をしてしまう人は脱水症状が加速して、生命が脅かされる可能性が高まります。

研究者たちは、飢饉や感染症が蔓延する世界では乳糖分解能力を持つ者が生き残る淘汰が起こり、人類の間に乳糖耐性が急速に広まったと説明します。ミルクは発酵させることで乳糖を減らすことができますが、先史時代の人々はそのまま飲むことが大半だったと考えられており、乳糖耐性を持つか持たないかの生存への影響は大きかったと考えられます。

哺乳動物の「戦略」としてプログラムされた乳糖不耐症

そもそもなぜ人類は、生まれた時には持っているラクターゼ活性を、成人する過程で手放すような進化をしたのでしょうか。酪農学園大の石井智美教授は「子供の食物を大人に横取りされないため」と説明します。

ヒトが家畜のミルク利用を始めたのは、野生動物の家畜化直後からではなく千年ほど後からだと分かってきました。おそらく、母畜を失った子畜の哺乳をヒトが介助する目的で他の母畜から搾乳を行ったのがきっかけとなったと考えられるそうです。

けれど、ヒトがヒト以外の哺乳動物のミルクを利用するのは、進化においては想定されていなかった状況のはずです。大人が乳糖不耐症になることは、哺乳生物の戦略として「子供の食物である自己の種のミルクを大人が奪わないようにプログラミングされている」と考えるべきだと言います。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト/博士(理学)・獣医師。東京生まれ。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第 24 回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ポーランド、米と約20億ドル相当の防空協定を締結へ

ワールド

トランプ・メディア、「NYSEテキサス」上場を計画

ビジネス

独CPI、3月速報は+2.3% 伸び鈍化で追加利下

ワールド

ロシア、米との協力継続 週内の首脳電話会談の予定な
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者が警鐘【最新研究】
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 5
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 6
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 7
    3500年前の粘土板の「くさび形文字」を解読...「意外…
  • 8
    メーガン妃のパスタ料理が賛否両論...「イタリアのお…
  • 9
    なぜ「猛毒の魚」を大量に...アメリカ先住民がトゲの…
  • 10
    「関税ショック」で米経済にスタグフレーションの兆…
  • 1
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き詰った「時代遅れ企業」の行く末は?【アニメで解説】
  • 2
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 3
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 4
    【独占】テスラ株急落で大口投資家が本誌に激白「取…
  • 5
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥ…
  • 6
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 7
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】アメリカを貿易赤字にしている国...1位は…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story