トヨタのリコール問題。豊田章男社長が2月24日の米議会下院公聴会を乗り切ったことでひとまず反応が落ち着くかに見える一方、翌々日になって「トヨタが内部資料を繰り返し隠蔽した証拠を入手した」と下院委員長が発表するなど、この先どう展開するかはまだ予断を許さない。
2月26日には、4年前にミネソタ州で3人が死亡する衝突事故を起こして服役中の男性が、事故の原因は運転していたトヨタ車にあるとして再審理を求めているというニュースまで飛び込んできた。起訴した検事もその必要性を否定せず、ドライバーを非難していた被害者の遺族は、今では彼は無実なのではないかと思っているという。こんな動きが全米に広がったら収拾のつかないことになるだろう。
下院の公聴会では、豊田社長の冒頭説明の中の"My name is on every car."というくだりに多くの米メディアがふれていた。かつてのダイアナ妃の並外れた人気やケネディ家への異常な注目に象徴されるように、アメリカはもともと歴史と伝統を備えた「ロイヤル・ファミリー」や「由緒ある一族」に弱いというか、コンプレックスと羨望の入り交じった屈折したまなざしで見る傾向がある。創業家一族の名前が「Toyoda」なのに社名はなぜ「Toyota」なのかを解説する記事もあちこちに出ていた。
気になるのも、まあ、わからなくはない。創業者の名前が社名になっている、あるいは社名に残っている大衆車メーカーはホンダ、オペル、ルノー、シトロエンなどたくさんあるが、ひ孫の代まで経営に関わり、しかもトップに就いたのはトヨタとフォードくらいである。
100年前にT型フォードを作ったヘンリー・フォードの息子の息子の息子、ウィリアム(ビル)・クレイ・フォード・ジュニアは大学を出てすぐにフォードに入社、99年に42歳で会長、2001年に社長兼CEOとなり、2006年に退任した(現在は会長)。豊田章男氏は勤めていた銀行をやめて84年にトヨタに入社、2009年6月に社長に就任するまで生産管理や中国事業を担当した。
この2人を比べて、どちらのほうが運に恵まれていると言えるだろうか。
ビル・フォードが創業家出身者としては23年ぶりに経営トップに就いたのは、170人を超える死者を出した欠陥タイヤ問題でフォードがファイアストン社と泥沼の対立を繰り広げ、信頼がガタ落ちして販売台数も低落した直後だった。
90年代から環境オタクだったビル・フォードは、さっそくさまざまなエコカーの開発を打ち出した。しかしどれも実を結ばず、主力のピックアップトラックの低迷で経営危機に陥った責任を取る形で06年にトップの座を降りた。
昨年、GMとクライスラーが実質破綻する一方でフォードが生き残ったのは、ビルの後任CEOとなったアラン・ムラーリーが早くから財務体質を強化しておいたためとも言われる。ムラーリーの評価が上がるほど前任者の経営実績はかすんでしまうが、ビルがさほど目立った実績を残せなかったのは時代のめぐりあわせと言えなくもない。
GMやクライスラーがプリウスを小ばかにしていた頃、ハイブリッドのSUVとか燃料電池のセダンとか、当時のアメリカ人は見向きもしそうにない車の開発を本気で唱えていた経営トップはデトロイトで彼くらいのものだった。
マーケティングより未来志向で新しい車を考えられたのは御曹司ゆえの気楽さかもしれないが、ファイアストン問題でボロボロになったブランドイメージを創業家の威光で修復し、社内外の求心力を高める役割も果たした。エコに関して時代を先取りしすぎたのは本人は悔いが残るかもしれないが、「血筋」が意味をもつ時期にトップを務められたのは運が良かったかもしれない。
ではビル・フォードとは正反対に、トップ就任直後によもやの危機に見舞われた豊田章男社長のほうが不運なのか。
今回の発端となった不具合は社長就任が決まっていた去年夏の段階ですでにアメリカで問題になっていたし、今年になってからのリコールの判断やメディアを通じての説明はいかにも手際が悪い。その点は運というより組織のトップとしての責任だが、これだけの逆境にいきなり直面するというのは、ある意味で運に恵まれているという見方もできるのではないかと思う。
安全性、消費者や従業員や投資家の信頼、メディアへの広報、ブランドイメージ、リスクマネージメント、ブラックボックス化した電子制御やハイブリッドシステムを世の中にどう認知してもらうかという問題、北米市場での評判.....これだけ多くの要素を企業が一度にまとめてリセットできる機会はめったにない。対処に失敗すれば多くを失い、創業家の名前にも傷がつくかもしれないが、逆に今回の危機をうまく乗り切ることができれば、この御曹司が経営トップにふさわしいかどうかを疑う声は出なくなるだろう。
ちなみに、ビル・フォードと豊田章男氏は誕生日が一緒(5月3日)。フォード・ジュニアは1957年、豊田ジュニアは1956年生まれの1歳違いである。