コラム

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論

2019年08月13日(火)16時30分

無制限な政府債務拡大は何をもたらすのか

上述のように、MMTは、家計とは異なり政府には予算制約は本来的に存在しないと考える。MMTはまた、政府債務は民間にとっては純資産であると考える。つまりMMTにおいては、政府と民間は常に非リカーディアンである。それは、MMTが、「政府は債務拡大を通じて民間の純資産を無制限に拡大させることができる」と想定していることを意味する。

正統派は、そのような政府債務および民間純資産の無制限拡大が「そのままの形で」続くことは不可能と考える。とはいえ、それは必ずしも政府の通時的予算制約の不在を意味しない。正統派はむしろ、政府の予算制約が存在するからこそ、「政府が非リカーディアンな財政運営を続けていけば必ず何らかの物価調整が生じる」と考えるのである。

MMTによれば、政府は資源制約に直面しない限りその債務を拡大させ続けることができる。例えば、45度線モデルが永遠に続くような、生産の制約がもっぱら需要側にのみ存在する経済を考えよう。それは、ケインズが『わが孫たちの経済的可能性』(1930年)で描き出したような、社会が必要とする財貨が、近年でいえばITCやAIなどの技術革新によって、ごくわずかの労働資源の投入により供給可能になった経済である。それは、ケインズの楽観的展望とは異なり、大失業経済になる可能性もある。MMによれば、そのような経済状況下では、政府はその債務を極限まで拡大すべきであるし、そうしたとしても、資源制約に達していない以上、インフレも何も起こらない。

それに対して、正統派の推論では、仮に経済が不完全雇用であっても、政府が永遠に債務を拡大させ続けていけば、必ずある時点でインフレ圧力が生じる。というのは、政府と家計が非リカーディアンであり、政府債務の増加が民間の純資産の増加を意味するとすれば、それが物価に何の調整ももたらさずに永遠に拡大し続けることは不可能だからである。民間の純資産とは、実物的な財貨サービスに対する将来的に行使可能な請求権を意味する。その請求権が拡大していけば、財貨サービスに対する支出も当然拡大する。その支出拡大が財貨の供給拡大を上回れば、それはやがてインフレを発生させる大きな圧力になる。

そのことを最も簡潔に描写したのは、クリストファー・シムズの問題提起を浜田宏一・内閣参与が紹介したことで有名になった物価水準の財政理論(Fiscal Theory of Price Level: FTPL)である。それは、「現在の物価水準は将来の実質財政余剰を現在の名目債務残高と等しくさせるように決まる」という考え方である。それを式で表せば、「物価水準=名目債務残高/将来の実質財政余剰」となる。これは要するに、「物価水準は過去から将来にわたる政府の予算を均衡させるように決まる」ということである。

ここで「名目債務残高」は過去から現在の財政赤字の累積として既に決まっているから、「将来の実質財政余剰」が大きくなれば物価水準は下落し、それが小さくなれば物価水準は上昇する。ただし、この名目債務をすべて将来の財政余剰すなわち増税で返済しようとするリカーディアン政府下では、こうした財政主導の物価変動は生じない。つまりFTPLでは、政府も家計も常に非リカーディアンが仮定されているのである。

同じことは、ミルトン・フリードマンに始まりベン・バーナンキによって引き継がれたヘリコプター・マネー論についても言える。これは、財政拡張と金融緩和を同時に実行することで、あたかも紙幣をヘリコプターでばらまくかのように民間経済主体が保有する資産としての貨幣を増やそうとする政策である。上述のように、それによって人々が保有する資産が拡大すれば、財貨サービスに対する支出も拡大し、やがてインフレがもたらされる。この政策はFTPLと同様に、必ず非リカーディアンな政府と家計を前提とする。というのは、仮に人々が「政府はヘリコプターからばらまいた貨幣と同額を必ず増税によって回収するだろう」と考えれば、人々が支出を増やすはずもないからである。

根本的に異なる政府債務と予算制約に関するMMTと正統派の把握

新旧ケインジアンの多くが含まれる赤字ハト派と、ラーナーからMMTに至る赤字フクロウ派は、少なくとも不況下あるいは不完全雇用下では、政府による積極的な赤字財政という政策戦略を共有できる。しかし、対立はやはり完全雇用が達成されたあとに生じる。赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである。

MMTと正統派の間には、不況対策という面でも一つの大きな相違がある。上述のように、正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、「財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する」という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない。その意味で、MMTとヘリコプター・マネー論は、しばしば混同されるものの、基本的に似て非なる政策戦略なのである。
(以下、MMTの批判的検討(6完)に続く

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

マスク氏とインドネシア保健相、保健分野でスターリン

ビジネス

アングル:米株が最高値更新、経験則に従えば一段高の

ワールド

イラン大統領と外相搭乗のヘリが山中で不時着、安否不

ワールド

カナダ、中国製EVの関税引き上げ検討=BBG
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「隣のあの子」が「未来の王妃」へ...キャサリン妃の「ロイヤル大変貌」が話題に

  • 2

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 3

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイジェリアの少年」...経験した偏見と苦難、そして現在の夢

  • 4

    米誌映画担当、今年一番気に入った映画のシーンは『…

  • 5

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 6

    「裸に安全ピンだけ」の衝撃...マイリー・サイラスの…

  • 7

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 8

    「すごく恥ずかしい...」オリヴィア・ロドリゴ、ライ…

  • 9

    中国の文化人・エリート層が「自由と文化」を求め日…

  • 10

    日本とはどこが違う? 韓国ドラマのオリジナルサウン…

  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 3

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 4

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 5

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 6

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 9

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイ…

  • 10

    「隣のあの子」が「未来の王妃」へ...キャサリン妃の…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story