コラム

ドナルド・トランプとアメリカ政治の隘路

2016年11月10日(木)12時12分

 過去30年ほどの間にアメリカ政治から失われたのは、「他人の幸福」を真剣に考えるような「共感」や「同情」という道徳と感情です。本来個人主義で自由主義であったアメリカ社会には、教会や、ボランティア、コミュニティなど、貧困や弱者を救済するための多様なネットワークがあり、また、ルーズベルト連合以降は次第にアメリカ政治も連邦レベルでそれに対応するための努力を続けてきました。それが、80年代以降には、経済社会構造の変化によって、それを持続することが困難となったのです。その結果、アメリカの理念が失われていき、社会に憎悪が満ちるようになります。

 そのような、1980年代以降の新自由主義の潮流の大きな変化(Sean Wilrenz, The Age of Reagan: A History, 1974-2008、ではまさにそのような変化が描かれています)、2010年代のPost-Truth政治の台頭、そして共和党の分裂と混乱、さらには政党組織の組織力の低下とイデオロギー的な帰属意識の退潮などによって、従来の政治に巨大な変化が訪れているということをどのていど考慮に入れるのかによって、今回の大統領選挙に関する予想と認識が異なるのだろうと思います。あまりにも、メディアの論評などで、そのようなアメリカ社会の変化に対する言及が欠けており、トランプ個人に対する侮蔑が溢れていたので、私自身もトランプを侮蔑する立場でありながらも、同時にその背後にあるトランプ支持者の感情や怒り、憎しみにある程度の理解とアダム・スミス的な「共感」を持つ重要性を感じています。

 皮肉なのは、おそらくはそのような弱者への共感は、トランプよりもヒラリーの方がより深く理解して、行動する姿勢を示していたことです。アメリカにおけるトランプ支持者は、自らの怒りや憎しみを緩和させてくれるのが、トランプではなくて本来はヒラリーであることを理解するべきでしたが、大統領選挙の勝利を技術的な方法だけで達成しようとした政治的エリートのヒラリーは、悲劇的にもそのような「共感」を表現する能力を持たなかったのです。ヒラリーの選挙戦略は、トランプを見下し、侮蔑し、攻撃することにターゲットを置いていたので、それは明らかに逆効果だったのです。選挙戦略の致命的な失敗です。

 最も悲劇なのは、ヒラリーが持っているそのような美徳をもっとも雄弁に表出できたのが、選挙の敗北を受け入れる際のスピーチにおいてでした。そこで提供できたような感動を、まぜもっと早く表現できなかったのか。

【参考記事】クリントン当選を予想していた世論調査は何を間違えたのか

 私は、それでも選挙人の数では僅差でヒラリーが勝利すると考えていましたが、しかしながら最後の最後までもつれるような接戦となって、どちらが勝っても不思議ではないとも考えていました。それは、昨年のイギリス総選挙で事前の世論調査機関で、いかなる政党も単独過半数を取れないと想定していて、見事にぞれが外れたことにも現れています。さらには今年のイギリスのEU国民投票も、前日の最後の世論調査ではだいぶ差が開いて、イギリスのEU残留となると想定されていました。つまりは、従来同様の確度で、事前世論調査を前提にして大統領選挙の結果を予測することは、現代の民主主義諸国は難しくなっているのでしょうね。

 人間は危機に直面しないと変革をしません。同じように、アメリカ政治もこのような危機に直面しなければ、新しい時代に相応しいかたちへと変わっていくのが難しいのだろうと思います。

※当記事はブログ「細谷雄一の研究室から」から転載したものです。

プロフィール

細谷雄一

慶應義塾大学法学部教授。
1971年生まれ。博士(法学)。専門は国際政治学、イギリス外交史、現代日本外交。世界平和研究所上席研究員、東京財団上席研究員を兼任。安倍晋三政権において、「安全保障と防衛力に関する懇談会」委員、および「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」委員。国家安全保障局顧問。主著に、『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、サントリー学芸賞)、『外交による平和』(有斐閣、櫻田会政治研究奨励賞)、『倫理的な戦争』(慶應義塾大学出版会、読売・吉野作造賞)、『国際秩序』(中公新書)、『歴史認識とは何か』(新潮選書)など。

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