「みんなのための資本論」と99%のための資本主義
労働組合に経済活性化の比重を置いているように思える
ところでこのようなライシュの見取り図に対して、先の辻村江太郎は反論している。ちなみに以下の辻村の主張は日本経済が世界第二位で、経済的パフォーマンスが先進国の中でも良好であった1980年代前半のものであることに留意されたい。
辻村のライシュ批判は、ライシュが肯定的に語る米国の協調型寡占(と企業横断型労働組合)は生産性向上の点で、日本との競争に負けている、とするものだった。80年代の米国の自動車産業や鉄鋼産業の苦境は、まさにこのライシュが「好循環」を生み出すという協調型寡占体制にこそ原因がある。なぜ日本の生産性が上か。
辻村は日本の産業が「競争的寡占」の状態にあるという。寡占は先ほど説明したように産業に属する企業数がごく少数のケースだ。この企業たちはお互いに厳しい競争状態にある。各企業は少しでも市場占有率を奪取しようと虎視眈々としている。例えば不況で「過剰生産」が生じても、個々の企業努力の優劣によって市場占有率が変化するととらえる。経営者だけではなく、企業ごとに形成された労働組合(企業別労働組合)もまたライバル企業に対して強い闘争心を持っている。各企業はお互いに労使一体となってライバル企業との競争にまい進するだろう。
「企業間競争は各社の従業員に運命共同体の意識を目覚めさせ、その意識を生産性向上努力に結集させていく。アメリカのように生産物市場が協調寡占で、プライス・リーダーがゆるぎない支配力を行使できるのであれば、本来的に生産性向上への圧力は働かないのである。従業員が企業間競争を意識しない場合は、結束する必要も感じないから、自分自身の利害だけ考えればよく、むしろ個人間競争の意識が強くなって、個人能力相互の補完性が阻害されることにもなる」(辻村前掲書、23頁)。
ここで興味深いことは、米国的協調寡占の方が、協調するがゆえにエゴイズムを生み出しやすいと、辻村が指摘していることだ。他方で、ライシュ自身は、協調寡占と企業横断型労働組合が安定していた戦後から1970年代真ん中までを「全員参加」で繁栄の果実を共有できた時代だとしている(ライシュ『余震 そして中間層がいなくなる』東洋経済新報社、2011年)。
ところが辻村はこの「好循環」の中に、すでに個人間の競争を過度に刺激し、やがて他者よりもより多い成果を自分だけで独り占めするエゴイズム、強欲に至る社会分断の可能性を示唆している。これは面白い指摘だ。
ちなみに辻村もライシュと同じように貿易は国と国が勝敗を決める競争場だと思っていること、産業政策(政府による経済的誘導)を支持していることに留意しておきたい。
とりあえずここまででライシュの経済論の特質はわかっていただけただろう。より直接的にいえば、労働組合に経済活性化の比重を置いているように思える。
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