他人の悲しみや苦痛を美談化し、使い捨てするメディアへ【エモを消費する危うさ:後編】
エモ文体は、どこかふわっと摑みどころがなく、幼さを想起させるような言葉遣いが頻出する。大人が通り過ぎてしまう何気ないことにも目を留め、子どものように無邪気なものの見かたをする。それによって、"あどけない、無垢さ"を印象づける効果がある。
さらには、感情の動きや出来事を、少し大げさに盛って書く。エモ文体には、書き手を物語の主人公に仕立てる効果や、文章の骨子、本質をぼかして見えにくくする効果がある。
エモ文体の罪深さ、書き手の誓い
なぜエモ文体の話をしたかと言うと、エモ文体と消費文化は地続きだからだ。エモ文体の使い手に、広告業界に身を置く人やその関係者が多いように見受けられるのも、そのこととは無縁ではないように思う。
深刻な社会問題をエモ文体で綴った記事が相次いで炎上するということがあった。先に述べたように、文章には必ず、筆者、編集者の意図が介在している。書き手のメンタリティが如実に現れる。
書き手が自覚的かどうかは知らない。しかし、炎上したエモ記事からは、問題を"ネタ"として捉えていること、もっと言えば、"社会問題は自分を引き立たせる道具"だと思っていること、そんなメンタリティが見えてくる。
そして、こうした文章は一部にウケがいい。メディアジェニックなのだ。コテコテのエモ文体でないにせよ、人や社会の困難をどこかセンチメンタルにエモキラコーティング(エモく、キラキラと仕立て上げる)した記事のなんと多いことか。
私は、困難を困難のまま伝えることが大事だと思っている。キラキラさせず、ポルノ化せずに。そして自分の記事を書く時は、センセーショナリズムと、メディアジェニック、に小さな抵抗を込めている。
『死にそうだけど生きてます』
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