若者はこうして戦地へ送られた──櫻井翔が日本近代史家・秦郁彦に聞く
YOUTH AT WAR
秦 学生のほうも圧倒的にパイロットに人気が集まったのですが、一人前になるまでには1年の訓練が必要なのに、技量不足のまま44年夏から秋に前線へ送り出されました。そして結果的に特攻要員とされてしまった。学生のほうも、通常の航空戦では役に立ちそうもないが、体当たりならという心理状態に追い込まれ、特攻志願者が続出します。43年9月に採用された海軍飛行科予備学生は1618人が戦死したが、うち448人が特攻死でした。
櫻井 アメリカの学生パイロットはどんな役割を果たしたのですか。
秦 志願者の中で人気が高かったのはやはりパイロットで、優秀者に十分な訓練を施し、彼らは航空戦の勝利を決定した中核の戦力となりました。パイロットは全員が将校になりました。例えば後に大統領になるジョージ・ブッシュ(父)は高校を出てすぐ海軍のパイロットを志望、1年後に最年少パイロットとして18歳で少尉になり、小笠原上空で撃墜され味方の潜水艦に拾われました。また米空軍の戦闘機パイロットで5機以上を撃墜したエースのトップから第30位までは全員が大学出身者だったのに対し、日本はゼロという具合で、1年遅れの影響が出ました。
櫻井 私の大伯父である櫻井次男は、商工省に入ると同時に「短現」で海軍に入隊しました。海軍に行かないで、そのまま商工省で働くという選択肢はなかったのでしょうか。(編集部注:次男氏は42年9月に東京帝国大学法学部を卒業、高等文官試験に合格して、商工省に入省すると同時に「短期現役」、いわゆる「短現」で海軍経理学校に入校。主計中尉に任官して海防隊の主計長として勤務し、終戦の年の3月、ベトナム東岸沖で乗艦が米空軍機に撃沈され、戦死した)
秦 そのまま商工省に勤務していると、徴兵され陸軍の二等兵として第一線に送られる可能性がありました。海軍はそこに目を付けて高等文官試験に合格した若手官僚を採用し、急膨張した軍艦や部隊の主計科士官に充当しました。経理、補給、輸送や、軍需工場の監督官に振り分けました。
短現は38年卒業の第1期生から45年卒業までの累計は3381人で、うち388人が戦死・戦病死していますが(『短現の研究』市岡揚一郎、87年)海軍将校の生活水準は陸軍に比べると格段に良かったので、各省に採用されたキャリア官僚は短現を選んだ人が多かったようです。戦後に各省事務次官の半分近くが短現出身者だったことが話題になりました。